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夏目漱石『彼岸過迄』を読み直してみた話

還暦をむかえ、漱石を読み直しております。
「ほんまは読んだことないんちゃうん?」と自分を疑うほど、まるで記憶にございません😢

やっぱり読んでないのかな~🤔

そんな状況ですので「元国語教師が」などという枕をつけるのが恥ずかしく、今回から省きました😆

さて、前期三部作の『三四郎』『それから』『門』に続き、今回は後期三部作の1作目『彼岸過迄』を読み直してみました。


『門』と『彼岸過迄』の間の出来事

『門』の新聞連載(1910年)を終えてから『彼岸過迄』の連載(1912年1月1日~)を始めるまでの間に、漱石の身には「死」に関わる大きなできごとがありました。

「修善寺の大患」と「長女 雛子の死」です。

「修善寺の大患」とは、伊豆で療養をしていた時に大量の喀血をし、生死の境をさまよったというできごとのことです。1910年8月のことです。

そして1911年11月には、まだ1歳だった長女 雛子が急死します。

これらの出来事は、漱石の人生観、死生観にも大きな影響を与えたことと思われます。

「序文」のこと

『彼岸過迄』には漱石自身による「序文」がついています。
この小説を書き始めるにあたっての思いが綴られているのですが、そこには小説名の由来についても触れられています。

『彼岸過迄』というのは元日から始めて、彼岸過迄書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない

『彼岸過迄』序文

読者からすると、「いや~、そんなことはないでしょう」と勘繰ってしまいます。
娘さんが彼岸に旅立たれたことも関係あるのと違いますの?
とか、
「せめて彼岸が過ぎるまでは体調を保ちたい」と思てはるのと違いますの?
とか。
けれどもご本人がこう書いていらっしゃるのですからそうなのでしょう。
(ちなみに『彼岸過迄』の次の連載小説『行人』は、途中体調不良で休載されています😢)

あらすじ

短編小説のような独立した6つの章がつながって、一篇の長編になっています。
いくつかの章では語り手もかわります。

「風呂の後」
大学を卒業して仕事につけないでいる田川敬太郎が語り手となり、彼の人物像が、同じ下宿の住人で、さまざまな仕事を遍歴した森本と比較して描かれています。

「停留所」
敬太郎
は、大学の友人である須永の叔父で実業家の田口に就職を頼む決意をして、須永の家を訪ねます。
須永から紹介された田口から、「ある男の、電車から降りてからの2時間以内の行動を調べて報告しろ。その男の特徴は~である」という変わった依頼を受けます。敬太郎はそれを真剣に実行します。

「報告」
「停留所」の種明かしの章。
敬太郎は田口に、調査した男についての報告に行きます。
すると田口からその男に会いに行くよう指示され、紹介状をもらって男を訪問します。
敬太郎が調査した男は田口の義兄の松本で、松本と一緒にいた女は田口の娘の千代子であったことが明かされます。松本は、家の財産で高等遊民として暮らしています。
この田口のイタズラを通じて、敬太郎は田口家に出入りするようになります。

「雨の降る日」
雨の降る日に、松本の幼い娘が突然死んだ話とその葬儀の話。
漱石自身の五女・雛子が急死した時の気持ちを松本に託したと思われる章です。

「須永の話」
須永と千代子の恋愛の話。
この章の語り手は須永です。須永の母親は千代子と須永の結婚を強く望み、千代子も須永に好意をよせていますが、須永は千代子との結婚から逃げようとします。

「松本の話」
松本が語り手となります。
須永の千代子をさけようとする気持ちは、実は須永が母親の実の子どもでなかったという出生の秘密にあったことが明かされます。
松本は須永に意見し、須永は気持ちの整理のために関西に一人で旅に出ます。
ひたすら内に向かう傾向のある須永でしたが、松本宛に届く旅先からの手紙の書きようから、世間への関心をもつようになってきていることが示されて物語はおわります。

感想

主人公はだれ?

『彼岸過迄』は、はじめ敬太郎が語り手として登場するのですが、彼は主人公ではありません。敬太郎は物語を面白くするためのコマのような存在です。

登場人物の中で、最も深く掘り下げて描かれているのは須永です
須永が語り手となる「須永の話」は6つの章の中で最も長く、彼の人生観や女性観、結婚観が鮮やかに描かれます。
漱石自身の内面も、須永という人物に、より深く反映されていると思われます。

須永の女性観・結婚観、そして…

須永の母親は千代子と須永の結婚を強く望み、千代子も須永に好意をよせていますが、須永は千代子との結婚から逃げようとします。
逃げる理由はこうです。

千代子が僕の所へ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。
彼女は美しい天賦の感情を、有るに任せて惜気もなく夫の上に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の営養(栄養)を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違ひない。・・・僕は今云つた通り、妻としての彼女の美しい感情を、さう多量に受け入れる事の出来ない至つて燻ぶつた性質なのだが、よし焼石に水を濺いだ時の様に、それを悉く吸ひ込んだ所で、彼女の望み通りに利用する訳には到底も行かない。もし純粋な彼女の影響が僕の何処かに表はれるとすれば、それは幾何説明しても彼女には全く分らない所に、思ひも寄らぬ形となつて発現する丈である。万一彼女の眼に留まつても、彼女はそれをコスメチツクで塗り堅めた僕の頭や羽二重の足袋で包んだ僕の足よりも難有がらないだらう。要するに彼女から云へば、美くしいものを僕の上に永久浪費して、次第々々に結婚の不幸を嘆くに過ぎないのである。

『彼岸過迄』須永の話

簡単に解説しますと…

千代子はきっと美しく豊かな愛を自分にそそぐだろう。
そして彼女は自分の愛によって、僕が出世することをのぞむだろう。

でも僕は彼女の期待に応えられない。
出世のためには生きたくない。
だから彼女は「こんなに尽くしているのにどうしてあなたは出世しないの」と歎き、結婚したことを後悔するだろう…

というようなことを考えるのですね、須永は。

わかってない男やねぇと少し腹が立つのですが、次の「松本の話」で須永の出生の秘密が明かされ、「なるほど、そこでひっかかっていたのか」と気づかされます。


『彼岸過迄』、これまでの漱石の小説とは大きく趣きが違っていました。

推理小説を読んでいるような構成の面白さ、語り手によって文体も変わるという新しさ…。

2つの死の体験を経て新生漱石が登場したかのようでした。


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