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【本の紹介】『新編 日本の面影』と『思い出の記』(「ばけばけ」の予習)

朝ドラ『おむすび』が個人的にあまり好みではなくて、今後の朝ドラに期待してしまっています。などと言いながら『おむすび』も毎朝見ているのですけどね。

4月から始まる『あんぱん』は、「アンパンマン」のやなせたかしと小松暢夫婦がモデル。
そして、10月からは『ばけばけ』。
『おむすび』『あんぱん』『ばけばけ』。ひらがな4文字が続きますね。そういえば大河も『べらぼう』。

『ばけばけ』のモデルは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の妻、小泉節子。

『ばけばけ』が始まるまでにちょっぴり予習をしておこうと思い、Kindle Unlimitedで参考になりそうな本を探してみました。
そうしたら良さそうな本が2冊見つかりました。

1冊目は『新編 日本の面影(ラフカディオ・ハーン、池田雅之訳)』

ラフカディオ・ハーンの『知られぬ日本の面影』から池田雅之氏が抜粋してわかりやすい文章で日本語訳された本です。(ちなみに第2巻もあります)

2冊目は『思い出の記(小泉節子)』

夫であるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の思い出を、妻の節子さんの手で、わかりやすく楽しい文章で書かれた短い本です。


『新編 日本の面影』

1 ラフカディオ・ハーン略歴

1850年 レフカダ島(現ギリシャ領)に誕生

1890年(明治23年) 諸国放浪の後、来日し、島根で教職に就く

1891年 ハーンの家に女中として雇われた松江藩士の娘、小泉節子と結婚

1896年 東京帝国大学英文学講師に就任。日本に帰化し小泉八雲と名乗る

1903年 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)

1904年 狭心症により54歳で死去

2 本書のあらまし

とにかく日本と日本人を溺愛するハーンが愛をこめて書いた『知られぬ日本の面影』から、下の【目次】に挙げた11編を抜粋し、池田雅之氏が読みやすい日本語にして新編集された書。

【目次】
はじめに
東洋の第一日目
盆踊り
神々の国の首都
杵築――日本最古の神社
子供たちの死霊の岩屋で――加賀の潜戸
日本海に沿って
日本の庭にて
英語教師の日記から
日本人の微笑
さようなら

3 日本が好きすぎて

ハーンは日本が好きすぎて日本らしさのあるあらゆるものを褒めちぎってくれます。たとえば、日本語の文字。

名画のようなこの町並みの美しさのほとんどは、戸口の側柱から障子に至るまで、あらゆるものを飾っている、白、黒、青、金色のおびただしい漢字とかなの賜物ではなかろうかと─
表意文字が日本人の脳に作り出す印象というのは、退屈な、ただの音声記号であるアルファベットの組み合わせが西洋人の脳に作り出す印象と、同じものではない。-(中略)ー 表意文字は生きているのだ。それらは語りかけ、訴えてくる。

『新編 日本の面影』

たとえば、日本のモノたち。
「日本らしいものを見つけるとどんどん買ってしまう」という内容の文章に続いて…。

実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない。

『新編 日本の面影』  

たとえば、日本の教育。

近代日本の教育制度においては、教育はすべて最大限の親切と優しさをもって行われている。教師は文字通り教師(teacher)であって、英語の"mastery"の意味におけるような支配者ではない。教師は、彼の教え子たちに対し、年上の兄のような立場にある。教師は、自分の考えを生徒に押しつけようとしたりはしない。教師は、決して頭から叱りつけるようなことはせず、生徒を非難することもめったになく、懲罰を与えるようなことは決してない。日本の教師で生徒を殴る者はいない。もしそのような行為をしたら、その教師はすぐに職を追われるだろう。平静さを失って怒ることもない。そんなことをすれば、教え子たちや、同僚たちの眼の前で、自分を貶めたことになるからである。実際の話、日本の学校には懲罰というものが存在しない。たまに、ひどいいたずら小僧が、休み時間に教室から出してもらえないこともあるが、こんな軽い罰でさえも教師が直接与えるのではなくて、教師の訴えを聞いた校長先生が科すのである。このような場合のねらいは、楽しみを取りあげて苦痛を与えようというのではなくて、ひとつの過ちをみんなの見せしめにするのである。そして、多くの実例をみても、こんなふうに仲間の前で自分の過ちを反省させられると、少年は、二度とその過ちを繰り返すことはなくなるのである。出来の悪い生徒に、無理矢理に勉強を押しつけたり、ただ目を疲れさせるために四百行も五百行も文字書き写させる、といったような残酷な懲罰は、日本では想像できない。万が一、そんな懲罰があったとしたら、現在のこの状況においては、生徒自身が黙っていないだろう。日本中の公の教育機関にとっては、懲罰なしに完全に矯正できないような生徒が見つかれば、退校させられる方針になっている。もっとも、そんな生徒はめったにいない。

『新編 日本の面影』

明治23年ごろの島根県の学校はこうだったらしい。
昭和の時代の学校は、いっときの悪夢だったのね。
まだ悪夢の残骸が残っているけれど。

そして、ハーンはこんなことも書いています。「人間の感情」について。

そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや哀しみに共振するものではないだろうか。

『新編 日本の面影』

河合隼雄さんの「魂」の話と通じるものがあるような。

『思い出の記』

こちらはハーンの妻、小泉節子さんの著作。
ハーンと暮らすのはタイヘンだっただろうなぁということがわかります😆

私は部屋から庭から、綺麗に、毎日二度位も掃除せねば気のすまぬ性ですが、ヘルンはあのバタバタとはたく音が大嫌いで、『その掃除はあなたの病気です』といつも申しました。
学校へ参ります日には、その留守中に綺麗に片付けて、掃除して置くのですが、在宅の日には朝起きまして、顔を洗い食事を致します間にちゃんとして置きました。この外掃除をさせて下さいと頼みます時には、ただ五分とか六分とか云う約束で、承知してくれるのです。その間、庭など散歩したり廊下をあちこち歩いたりしていました。

『思い出の記』

「ヘルン」というのはHearnをヘルンと読んだことから始まったとのこと。

お二人の会話は、お互いにわかりやすい日本語でされます。
それを「ヘルン語」と読んでいたそうです。「ヘルン語」は夫婦以外の人には理解できず、節子さんがヘルン語を通訳されていたとか。
おふたりの会話の様子が著書の中でも再現されています。

食事の準備ができているので呼んでも、ハーンは集中していると耳に入らずなかなか食卓にやって来ません。節子は言います。

『パパさん沢山時、待つと皆の者加減悪くなります。願う、早く参りてくだされ。子ども、皆待ち待ちです。』

『はー何ですか』などと言っています。

『あなた何ですか、いけません。食事です。あなた食事しませんか』

『私食事しませんでしたか。私は済みましたと思う。おかしいですね』

こんな風ですから『あなた、少し夢から醒める、願うです。小さい子ども泣きます』

『思い出の記』

おそらく読み手にわかるように、普段の会話よりも日本語らしく書いてあるのだと思います。お互いにわかることばを探りながら会話をされていたのでしょうね。
小泉八雲の『怪談』は、節子さんの大きな支えがあってのものでした。

『思い出の記』心温まる書物でした。短いのですぐに読めますよ。
『ばけばけ』が始まるまでに、いかがでしょう?




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