普通の人になりたかった一郎(夏目漱石『行人』を読み直してみた話)
還暦を迎えて、学生時代に読んだはずの漱石を読み直しております。
前期三部作『三四郎』『それから』『門』を読み終え、
前回は後期三部作の1作目、『彼岸過迄』を読み終えたのでした。
今回は後期三部作の2作目、『行人(こうじん)』です。
やはり全く内容を覚えておりませんでした。
…が、
「これは私の生き方に影響を与えた本に違いない」
と確信しました。
なぜかというと、この小説で最も重要な長野一郎という人物に非常に共感したからです。
学生時代の私は還暦の私よりもずっと純粋でしたから、その共感度合いは凄まじかったと思われます。
大学に入ってしばらくの間、私が読書断ちをしたのは、『行人』以降の漱石の著作の影響が大きかったのではないかと思われます。(自分のことなのに確信が持てませんが…)
登場人物
長野一郎
学者であり物事を深く掘り下げて考える性質がある。
長野二郎
一郎の弟。本作の語り部でもある。
直
一郎の妻。
重
一郞の妹。
貞
一郎の家の下女。
H
一郎の友人。おおらかで現実的な性格。
三沢
二郎の友人。
岡田
一郎の母方の縁戚。
兼
岡田の妻。
佐野
貞の結婚相手。
あらすじ
「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の4編で構成されている。
友達
二郎は友人・三沢と会う約束をして大阪を訪れた。だが三沢は胃腸を悪くして病院に入院していた。二郎は三沢がいる病院にいたある女に心を惹かれる。二郎が三沢に彼女のことを聞くと、三沢はその女と知り合いだという。三沢はその女の病室を見舞い、見舞金まで渡す。実はその女は、昔、三沢が同じ家に住んでいた娘さんと似ているというのである。「娘さん」は精神を病んでいたのだった。
兄
三沢を送った翌日、二郎の母と兄・一郎、兄の嫁・直が大阪にやってきた。四人は観光のためにしばらく滞在する。その折、妻を信じきれない一郎は二郎に対して、直と二人きりで一晩泊まり、彼女の節操を試してほしいと依頼する。二郎は拒否するがとうとう直と二人で旅行することとなる。嵐の中で二人は一晩過ごし、一郎たちのもとへ帰った。詳しい話を東京で話すことを約束して、四人は東京へ帰った。
帰ってから
東京へ戻ってからしばらくすると、一郎は再び二郎に嵐の晩のことを話すよう迫る。二郎は特に話すべきことはないとして一郎の追及を避けたが、一郎は激怒した。以後、家の居心地が悪くなった二郎は、実家を出て下宿することを決めた。そのころから、兄の様子が家族の目から見てもおかしくなったと、二郎は周囲から聞かされる。
塵労
二郎は両親と相談し、一郎をその親友のHに頼んで、旅行に連れ出してもらう。二郎はHに、旅行中の一郎の様子を手紙に書いて送ってくれと頼んだ。一郎とHが旅行に出かけて11日目にHから長い手紙が届いた。その中には旅行中の兄の苦悩が、Hの目を通して詳しく書かれていた。
一郎の、「普通の人になれない苦しみ」
一郎は、頭が働きすぎて何事も深く考えすぎてしまいます。
そのために、周囲の人々とうまくやっていけません。
自分の部屋に籠り、学者として学問に勤しんでいます。
家族も含め周囲の人々は、一郎の機嫌を伺い、「もっと気持ちよく振舞えないものか」と思っています。
『行人』の初めの3編では、一郎以外の人々の、いわば「普通の人の悩みや生活」が面白く描かれます。
「普通の社会生活」においては、一郎は、頭は良いけれども気難しく、「普通の人」の気分を害する人間です。
けれども最後の「塵労」で、ようやく「普通の人になれない苦しみ」を抱える一郎が浮かび上がります。
一郎と旅をした友人、Hの長い手紙によって。
手紙のうち、印象的な部分を抜粋します。(兄さんとは一郎をさします)
兄さん(一郎)は、普通の人になれません。けれどもなりたがっています。
「日常の用事を黙々と行う貞(下女)がすばらしい」と思っており、
「どうかして香厳になりたい」といいます。
香厳とは、頭が良すぎて悟りを得られず、書物も知識も役に立たないと全てを捨て、その結果悟りを得たという禅宗の僧侶です。
『行人』の連載中、漱石は胃潰瘍が悪化し、約4か月連載中断されました。
一郎の苦しみは、漱石の苦しみでもあったのでしょう。
そして令和の現代も、一郎や漱石のような苦しみを抱える人がたくさんいらっしゃるに違いありません。
やはり私が大学時代に本断ちをしていたのは、たぶん『行人』以降の漱石の影響だと思います。それほど若い私には強いインパクトがあったのでしょう(本の内容は覚えていませんでしたが…)。
学生時代の私は、おこがましくも一郎と自分を重ね合わせていたのでしょうが、還暦を迎えた私は、一郎ではなくて、Hさんのような存在でいられたら良いなぁと思うようになっていました。