人をタイプわけすることへの違和感
どんな人にも、論理的な部分も感覚的な部分もあるように、ネガティブもポジティブも必ずある。そのネガティブもポジティブも“自分”がどう捉えているかだけ。
自分では「熱い」と思っているのに、「冷静だね」って言われると「え?冷静ですかね…?」と困惑することもある。
「質問しすぎちゃって居心地悪かったかな?」って気にしていても、「たくさん聞いてもらえて嬉しかった!」って言ってもらえることもある。
お互いの関わりによって磁石のように引き出されたり、抑えられたりするものなんだと思います。
私は自分のことを「繊細だわ〜」と感じていますが、夫からは「鈍感だよね〜」と言われていて。確かに…家の中では細かいことを気にしないことが多くて、仕事を頑張りすぎちゃっている時は、この言葉にだいぶ救われている。
この多面性があるからこそ、ギャップから深みを感じたり、面白みがあるんじゃないかなって思います。
「○○さんは・・・タイプ」って公言されちゃうと、「・・・タイプ」だからっていうある種のレッテルを貼ることになっていまう。
その「タイプ」が本人のありたい姿だったらいいけれど、そうでないことも結構あるし、その「タイプ」がネガティブに作用していることもあって。
そうなると自分のネガティブが助長されるっていうか。
本人のありたい姿であり、周りからも「ここもっと開花させていったらいいのに」って思うところに注目していくといいんじゃないかな?というのが、現段階での私の答えです。
ライティングをする時に、ペルソナさんの微細な気持ちの動きを掴むことが大事なので、フックを探すときに「タイプ」による感じ方は、ものすごく大きな手がかりになる。
でも、一人一人の人生は唯一無二であり、カテゴリーわけでおさまるものではないんじゃないかなと。
私は、一面しか知られていないその人の魅力を知れた喜びを感じたくて。そして意外な魅力をもっと伝えたくて、この仕事を選んでいるいるのかもしれないなと思います。
どういう風な人と思われたいのかを知るためにも、まず大事なのは、自分らしいと感じる「自分が何か」を探し続けること。
その過程で、意外な自分に気づけて「愛おしい!」って思えたら最強だし、その分人にも寄り添っていけると思っています。
イラッとしたことも、感動したことも、全部自分を構成する要素の1つ。
自分の気持ちに繊細に気づけるほど、豊かな人間関係を築けるようになるんじゃないかなって思います。
私もずっと探りつづけていきます^^