岡本綺堂『影を踏まれた女』

Amazon.co.jp: 影を踏まれた女 新装版 怪談コレクション (光文社文庫) : 岡本 綺堂: 本

岡本綺堂は『半七捕物帳』で知られる作家だが、本書のような怪談も数多く残している。

ホラーというジャンルにおいて「生きている人間が一番怖い」という紋切型がある。それとは反対に「本当に怖いのは幽霊だけだ」という向きもある。正解はおそらくどちらにもないのだと思う。

岡本綺堂の書く怪談は、一見すると因果の筋が通ったものに見える。旅人を殺して金品を奪った家に変事が起きる。人を死に追いやった者が死者の霊に導かれるように無残な最期を遂げる。
こういう原因でこうなったという因縁話の体裁を取りながらしかし、岡本綺堂の怪談には因果関係をすり抜ける得体のしれないもの、腑に落ちないものが存在する。

たとえば「月の夜がたり」という掌編であるが、語り手の住む屋敷では一年に一度、旧暦の八月十五夜になると二階の梯子の下にぼんやりと男の姿が現れる。ただそれだけのことで、何かの障りがあるわけでもない。その家を立ち退くにあたって床下を掘り返したところ狸か貉と思しき骸骨が五つ埋まっていた。だからといって、十五夜に現れる男の影とのかかわりは定かでない。

また、収録されている「猿の眼」について解説の都築道夫は次のように書いている。

木彫りの面が光るという怪異が「猿の眼」の狙いではない。そんなことで、怖がらせようとしている作品では、ないのである。面が消えて、また現れる。露店でそれを売っていた男が、最初の貧乏士族とおなじように思われる。(中略)けれど、効果をあげているのは、その没落士族らしい男が、最初は子どもをつれていた。次には、つれていなかった、というところだろう。

猿の面の怪異によって死んだ男の辞世の句。そのお面を商っていた正体不明の親子連れ。読者の知りえないもう一つの物語がこの世の裏側で進行していると感じさせるところがこの作品の怖さであり面白さだ。

個人的に最も好きな話が「寺町の竹藪」だ。お兼ちゃんという女の子が行方不明になり、後になって遺体で発見される。失踪する直前、彼女は遊び友達の前に現れて、

あたし、もうみんなと遊ばないのよ。

という言葉を残していく。その時の鬼気迫る様子に子供たちは得体の知れない不安を覚える。
友達の前に現れた彼女は生きていたのか死んでいたのか。子供たちが見たのはお兼ちゃんの幽霊かもしれないが、もしそれが幽霊ではなく生きた人間だったとしても事件の不可解さになおさらぞっとするし、そう捉えうる余地がある。なぜ、どうやってその事件が起きたのか。理解の届かない空白がいたるところに口を開けている。こうなるともはや、生きてる人間が怖いのか幽霊が怖いのかという優劣は大した問題ではない。

怖いのは「わからない」という空白である。幽霊と言いきれればそれも一つの現実である。得体が知れれば怖くはない。因果関係がわかりそうでわからない、近づくと飲み込まれてしまいそうな空隙。それを人は恐れるし、一方で引き寄せられもする。言ってみれば、それこそがお化けである。

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