「多様性」という問題に正面から向き合った実写版「リトル・マーメイド」がアニメ版とは別物である理由
1989年の末頃、当時日本でもレギュラーで放送されていたCNNの「ショウビズ・トゥデイ」は、忖度ない映画評が話題で、どんな大作やヒット作でもコテンパンにこき下ろしていて、
その理由も極めて明快で分かりやすいものだったので、最新作の動向と出来映えを判断する上で非常に参考になる番組だった。で、その番組で自分が見ていた限り、初めて絶賛された映画が「リトル・マーメイド」だった。
とにかく非の打ち所がないという評価で、その「ショウビズが絶賛した」という事実自体が最高の品質保証になっていたし、実際、長年低迷を続けていたディズニーがこの作品を皮切りに第2次黄金期へと突入していったことを考えると、CNNの評価は慧眼だったことがわかる。
そういった意味では映画業界にとっても「エポックメイキング」だった「リトル・マーメイド」が満を持して実写映画化されるということは、ディズニーファンにとってだけでなく「大事件」であり、製作段階から大きな注目を集めたのは当然のことだったと思う。
問題はあの「名作」と呼ばれたアニメをどのように「アレンジする」のか、そしてどこを「アレンジしない」でそのままにしておくのかだったが、主人公であるアリエル役に黒人のハリー・ベイリーがキャスティングされると途端に炎上騒ぎとなった。曰く、「元々が白人であるアリエルをポリコレの風潮に合わせて黒人にするのはやりすぎだ」ということなんだが、賛否両論渦巻いたこの騒動の中身は、結局のところその程度の問題でしかなく、オリジナル版の「リトル・マーメイド」が持っていた「本質的な時代錯誤」や「白人社会こそが最高の楽園」といった価値観に対して、観客だけでなく、長年のファンを自認する人でさえ無関心であったことが露呈した結果となった。
オリジナル版の「リトル・マーメイド」は個人的には思い出深い作品だし、ディズニーの新たな時代を切り開いた貢献を忘れるわけではないが、公開当時はグローバリズムの到来した20世紀において、それでも世界5大陸における国々の価値観がまだまだ根強く存在していて、同時に異国のものには「情緒」さえ感じていた、言わば「古き良き時代」だった。要するに健全とされた「童話」が持っていた世界観や価値観がそのまま通じた時代だったのだ。
しかし21世紀もそろそろ四分の一が経過しようという現在では、この物語はもう「古すぎて問題だらけ」だった。安定と平安が保たれた「海の世界」の素晴らしさをカニのセバスチャンは陽気に歌いあげる。しかし陸の世界へのあこがれを止めることができないアリエルは、歌い続けるセバスチャンを置いてその場を去ってしまう。そして海上に出ると人間らが乗る船を見つける。そこでアリエルは船上のエリックに恋をすることになるのだが、その理由は彼の「見た目」だ。どんな性格で何者かも分からない状態で、「ハンサムだわ」とうっとりするアリエルもどうかと思うが、その後船が難破してアリエルに命を助けられたエリックも、おぼろげな記憶の中でアリエルに恋をする。そしてこれもまた「見た目」によってである。こうした軽薄さは童話特有のものなので、仕方がないと言えばそうなのだが、その後のアリエルの行動に関しては、仕方がないとは言えないと思う。
何が問題かというと、アリエルはエリックに惚れる以外には特に何もしていないのだ。彼女は父親の制止も聞かず、魔女アースラの甘言に惑わされて「人間になること」を望む。そしてエリックの元へ出向いて再会するものの、アースラの魔術によって声を失っているから告白もできないでいる。代わりにアリエルの恋の成就のために奮闘するのがセバスチャン、スカットル、フランダーというアリエルの友人らだ。
アースラがヴァネッサという若い女に化けてエリックと結婚しようとする策略においては、結婚式が行われる船へとアリエルを連れていくのはフランダーであり、式の進行を妨げ、魔法で奪われたアリエルの声を取り戻すのはスカットルだ。そして巨大化して彼らに襲いかかるアースラを、船を操って退治するのはエリックである。
最終的にアリエルは父のトリトンの許しを得て再び人間の足を与えられ、「人間の女性」としてエリックに嫁いでいく。それは海と人魚の世界との決別であり、人間社会の一員となることで幸福が得られたとする結末だった。
前述したように、20世紀の状況ではこの内容でも特に問題はなかったのだが、女性の地位向上
がこれまで以上に叫ばれる昨今においては、この「自らは何も結果を残せなかったアリエル」の姿は誰も共感できないキャラクターなんだと思う。だからこそ、今回の実写化に当たって、ディズニーは大胆な改変を行ったわけで、それは単に「アリエルを黒人キャストにする」といったものではなかったのである。
この物語は陸上の「人間の世界」と海中の「人魚たちの世界」の対立と和解をアリエルという存在を通して描いた作品だが、この構図はアニメ版よりも実写版の方が明確にされている。
人魚の王トリトンの七人の娘たちは「7つの海」を代表する存在として描かれ、その姿も白人、黒人、アジア人など多種多様な形に再設定されている。これは「海の世界ではあらゆる種族が平等で争いがない」というある種の理想型が実現していることを示していて、オリジナル版には存在した娘たちによる自己紹介の歌などが割愛されている理由はここにあるのだと思う。さて、トリトンの妻でアリエルたちの母親は、かつて人間によって殺された過去がある。その事実だけでなく、人間の持つ残虐さを理由にトリトンは人間社会へは近寄ってはならないという掟を作っている。その上で海の世界では基本的には平和と平等な社会が確立されており、それゆえセバスチャンは「アンダー・ザ・シー」で海での暮らしの素晴らしさを説き、陸の世界へ行きたがるアリエルに翻意を促す。前述したようにアニメ版ではアリエルは歌の途中でフランダーと共にその場を去ってしまうため、セバスチャンの警告や嘆願は無視されることになるのだが、実写版では異なっている。なんとアリエルは途中からセバスチャンとともに歌うのである。この点をオリジナルと解釈が違うことで不満に感じるファンも多いようだが、ここはなぜアリエルは「一緒に歌った」のかを考えるべきだ。要するにアリエルはここでセバスチャンの主張する内容を彼女なりに「肯定した」ことになるのだ。アニメ版ではその場を立ち去ることで間接的にセバスチャンの主張だけでなく、「海の世界での暮らし」そのものも「否定した」ことになる。この違いはとても大きなものだし、その変更の意図は実写版の最後まで貫かれることになる。
その後、エリックと再会したアリエルは、エリックもまた未知の世界への探究心に満ちた人物であり、現状での自分の立場やあり方に疑問を感じていることを知る。この2人の似た境遇を描くことで、この物語が「人間世界に憧れたアリエルという人魚の物語」という単純なものではなく、「人間世界と人魚の世界の双方から2人の人物が新たな世界への道を切り開く」というまったく次元の異なるものへと昇華されていることに我々は徐々に気づくことになる。
エリックとヴァネッサの結婚式でスカットルが騒動を起こすのは同じだが、ヴァネッサの首飾りが外れ落ちたことでアニメ版ではアリエルに声が戻ることになるが、今回はこの首飾りをアリエル自身が掴み取って甲板に叩きつけ、砕け散ったことで声を取り戻す形に変更された。さらに最後のアースラとの戦いでも、浮上した沈没船を操ってアースラに立ち向かって倒すのはエリックではなく、アリエルへと変更された。これによって冒頭で舵を切るエリックの姿をアリエルがちゃんと観察していたことが分かるし、首飾りの件も含めて、すべては「アリエル自身の行動」によって導かれた結果となっているのである。ある意味、他力本願でしかなかったアニメ版のアリエルが、今回は「自力本願で生きる女性」として描き直されているわけだ。この違いは極めて大きい。
そして最後にはアリエルとエリックは結ばれることになるのだが、それはアリエルが「エリックが後を継ぐ王国の姫として嫁ぐ」のではなく、「エリックとともに未知の海へと船出をして、2人で新しい未来を切り開き、人間と人魚の共存する新しい世界を模索していく」という形になっているのだ。
人間と人魚という異なる世界、それは差別や暴力が残る世界と、あらゆる種族が平等である世界という2つの世界だ。そして前者を代表するのが「白人のエリック」であり、後者を「黒人の
アリエル」が代表する。それは「多様性に準拠した作品作り」といった本質を理解しない表面的な対応などではなく、「多様性が実現する社会はこうあるべきなのではないか」という理想を実に丁寧に、そして誠実に表現したことになる。実写版「リトル・マーメイド」とはそういう作品なのだと思う。
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