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人の目が気になるあなたへ


あなたは何かの行動をするときに人の目が気になりますか?

私は気にするタイプです。

でも、できれば人の目を気にしない方が良いと思っています。今日は人の目を気にしないために、日頃考えていることについて書きました。




過度に人の目を気にするべきではない

何かをするときに、人の目が気になってしまうというのは、一定仕方のないことだと思います。

むしろ、人の目が気になってしまうという方は、何かをするときに相手目線に立てるという強みを持っている可能性が高く、それはコミュニーケーションにおいて重要な能力です。


しかし、過度に人の目を気にしてしまうと、

・自分の思っていることを言えない
・本当にやりたいことがやれない

ということになりがちです。


さらに、あなたにとって損するだけならまだしも、

・あなたの意見が出ないことでチームの改善機会を失う
・一番声の大きな人の意見ばかりが通るようになる
・若手や新人にとっても意見しにくい空気感になる

など、普段の仕事において、チームにとっての損失にも繋がりかねません。


なので、仕事の場面においては、「人の目を気にしない方がいい」のではなく、「過度に人の目を気にするべきではない」と言えるのではないでしょうか。


それって性格の問題?

人の目を気にしてしまうのは性格の問題なのでしょうか?性格の問題だとすると、それは生まれ持ったものでどうしようもないのではないでしょうか?

この問いに対する私の答えは、「性格の問題が大きいが、訓練で改善することは可能」というものです。


私自身の話をします。

私は学生の頃、人の目を気にしまくっているタイプの人間でした。いわゆる「斜に構える」タイプであり、あまり目立ちたくなかったので、自分が中心となって何かをやるということは少なかったと思います。

が、とある時期から、その性格に自覚的になり、何とかして変えられないかと模索し始めました。

今でも人の目が気になる気持ちが無くなっている訳ではないのですが、訓練と自己暗示によって、かなり人の目を気にしない人間になってきました。起業をするような人間ではないと思ってましたが、会社を作ったというのもその表れだと思います。

なので、私自身の経験から、人の目を気にしてしまうという問題は、「性格の問題が大きいが、訓練で改善することは可能」だと思っています。


「人の目」の正体は「自分の心の声」

具体的な訓練方法に入る前に、まずは「人の目を気にするメカニズム」について説明します。

私は精神科医や心理学者ではないので、体系だった論理ではなく、単純に個人の主観である点にはご留意ください。


人の目を気にしてしまうといった場合の、「人の目」というのは具体的には何を指すのでしょうか。実際に他人から厳しいことを言われたりしたのでしょうか。

多くの場合「人の目」というのは、実際には「自分の心の声」なんだと思います。

「あの人にこう言われるんじゃないか」
「あの人に嫌われないかな」

と思うとき、実際に何かを言われたり嫌われた訳ではなく、自分の心の中で「架空のあの人」を作り出し、悪いパターンを想定しているだけのケースが多いのではないでしょうか。

繊細な人であればあるほど、悪いパターンの想像ばかりをしてしまい、結果として人の目を気にして動けないという状況になってしまうような気がします。


他人を判断しない

だとすると、敵は「自分の心の声」となり、その対策としては「自分の心の声」を静めるのが効果的ということになります。

どうやって「自分の心の声」を静めるのかというと、他人に対して心の中で判断しないことが重要だと思っています。


日頃から他人に対して何かの判断をしている人は、「自分の心の声」もどんどん強化されていくことになります。

例えば、何かを必死に頑張っている人を見て、「あ〜あ、あんなに頑張っても意味ないのにな」という判断を心の中でしたとします。

これは、あなたの「心の声」としてインストールされてしまい、上述したように、「架空の人の目」として、そのまま跳ね返ってきます。だから、次にあなたが何かの行動をしようと思った時に「頑張っても意味ないと思われたらどうしよう…」という不安が芽生えてしまうのです。


私の場合、対策として、「他人に対して判断しない」ということをやりました。

「ちょっと変わってるな」という人を見ても何も考えない、「何かで失敗した人」を見ても可哀想だなと考えない、「SNSで炎上している人」を見ても善悪を判断しない、などのイメージです。

これを数年やっていると、だんだん何も考えなくなります。そしてそれは、「自分の心の声」を静めるという意味でも大きな効果がありました。

他人に対して何も判断をしなくなると、自分の行動に対しても何も気にしなくなっていきました。他人を判断しないのに、自分のことだけは気にし過ぎるということは、心理的に矛盾してしまうからだと思います。


この「判断しない」という考え方は、仏教から学ぶことができます。こちらの本に色々書いてあるので、興味ある方はどうぞ。


オードリー若林さんから学んだこと

私はオードリーのオールナイトニッポンのファンです。

この記事で書いた内容は、オードリー若林さんが出した「ナナメの夕暮れ」という本にも影響を受けています。なので、最後に本の一部を紹介したいと思います。


前作のエッセイで、スターバックスで注文の時に、「グランデ」と言えないと書いた。何か自分が気取っているような気がして、恥ずかしかったのである。

<中略>

こういう気持ちがどこから来るかというと、まず自分が他人に「スターバックスでグランデとか言っちゃって気取ってんじゃねぇよ」と心の内で散々バカにしてきたことが原因なのである。

他者に向かって剥いた牙が、ブーメランのように弧を描いて自分に突き刺さっている状態なのである。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」より

これは、真理に近いと思っています。先ほど説明したように、他人に対して心の中でケチをつけていると、自分の心の声によって、自分の行動も制限されてしまうのです。


さらに続けて、

昔から言っているのだが、他人の目を気にする人は"おとなしくて奥手な人"などでは絶対にない。

心の中で他人をバカにしまくっている、正真正銘のクソ野郎なのである。

その筆頭が、何を隠そう私である。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」より

ということも書かれています。気をつけたいですね…。


対策としては、

自分の生きづらさの原因のほとんどが、他人の否定的な視線への恐怖だった。その視線を殺すには、まず自分が、"他人への否定的な目線”を止めるしかない。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」より

と書かれていますね。これも私が意識していることと同じだと思っています。


本はこちらからどうぞ。


おわりに

人の目が気になる人にとって、一朝一夕で気にならなくなるようなことはあり得ないと思っています。

ですが、少しずつ意識することで、徐々に人の目を気にしない人間になれるかもしれません。

少しでも参考になれば。


おわり




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