ボードレールの詩集にリベンジ
【約1400字/3.5分で読めます】
私は読んでいる本のことは、すべて読み終わってから書くことが多いのですが、今回は読み切る自信もないので、途中で感想を書いてみます(読み終わった本でも、難しくて感想が書けない場合も多い)。
その本とは『巴里の憂鬱』です。
フランスの詩人、シャルル・ボードレール(1821~1867)の詩集で、亡くなってから2年後に発表されたものでした。
先ほど「読み切る自信がない」と書きましたが、私はこの本を1年前に古本屋で見かけて、なんとなく手に取ったんですね。
途中まで読み進めて、挫折してしまいました。
私はどんなに難しい本でも一度読みはじめたら、意味が分からなくても最後まで読み切る方なので、これは珍しいことです。
詩集ですし、話の筋があるわけでもないので、「まぁ、今読まなくても、いつでも読めるか」と放置していました。
我が家の居間には私用の本棚がいくつかあり、読んでいる途中のものは、そこに入れておくのですが、ずっとそこに置き去りになっていました。
『巴里の憂鬱』を読まなくなってから間もなく、私は梶井基次郎の『檸檬』を読みました。
『檸檬』を読了後、レビューを書く段階になってからのことだったと思うんですが、作者の梶井基次郎について調べていたら、「ボードレールに影響を受けている」という情報が出てきました。
これを知って、思わず私は棚に置き去りになっていた『巴里の憂鬱』を見つめました。
そんなことを知らずに、ボードレール、梶井基次郎を順番に選んで読んでいたんですが、こういう偶然って、結構あるんですよね。
それで、ますます私は「ボードレールを読まねば」というマインドになっていたものの、一度断念した本を再読するまでにはいたらず、ここまできてしまったわけです。
今回はたまたま手元に新たに読む本がなくなって、『巴里の憂鬱』にリベンジすることになりました。
ちなみに、私は同時に2冊の本を併読する習慣があり、1冊は小説、1冊はノンフィクションと決めています。
さらに、小説は「日本と海外のものを交互に読む」とパターンを決めていて、今回はたまたま海外文学を読む順番だったのです。
再び『巴里の憂鬱』を読みはじめ、まだ半分にも達していません。
150ページ程度の薄い本なので、外見はあっさり読めそうに見えるんですが、とにかく言葉が難しいので、スラスラとは読むことができないんです。
また、詩集というと、多くの方は「短文がいくつか並んで一篇」というスタイルを思い浮かべるでしょう。
しかし、『巴里の憂鬱』は散文でも、文章のスタイルは小説と変わらない文字の並べ方なので、感覚としては小説を読むのと変わらない感じなのです。
内容としてはボードレールが日常で見かけたものや空想を詩の形にして綴っているのですが、なんせ、言い回しが難しいですし、私たちとは生きている時代も国も違うので、それを頭で想像するのがやっとという感じでしょうか。
わからないなりに読んでいると、なんとなく梶井基次郎と共通する部分もうっすら感じられる時もあります。
いや、「難しい」のは悪いことではないんです。
むしろ、「詩」というのは、そういうものだと思います。
言葉にはできないことを詩にしているのだから。
読了はもう少し先になりそうですが、もう少し、ボードレールの世界に浸ってみようと思います。