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クリミアの歴史

昨日に引き続き、
ウクライナの話を書きます。

これまでの記事と同様に
以下の文献を頼りに書きました。

私の主張は、ほぼ含まれていませんので、
その点については
ご了承願います。

前回は、戦後、ソ連により、
ウクライナへの優遇政策が
とられた話を書きました。

読んでいて思ったのは、
優遇政策をするのはいいんですけど、
’80年代には肉屋で人肉を売るほど、
食料危機が切迫していたのだから、

そっちもなんとかした方が
良かったのでは、
ということです。
(これは私の感想)

前回の記事の最後に、
クリミアの話が出てきたので、
クリミアの歴史についても
振り返ってみましょう。

クリミア汗国→コサック

かつてクリミア半島には、
ジンギスカンの子孫が作った
「クリミア汗国」がありました。

それ以前は、離散定住の
ギリシャ人が住んでいたようです。
(離散定住=もとの国家や民族の居住地から
 離れて暮らす集落)

そこへやってきた
ジンギスカンの子孫たちが、
クリミア半島を占領しました。

ウクライナの歴史を
振り返った記事の最初の方で、

「周辺の国々からたびたび、
 攻撃されたり、占領されたり
 と悲劇の歴史を重ねていた」
と書いたのを覚えているでしょうか。

クリミア半島に成立した
「クリミア汗国」も
この例外ではありません。

クリミア汗国の人々は、
ウクライナ人が居住していた地域から
穀物や家畜を略奪し、

ウクライナ人の女性まで拉致して、
それらをペルシャやアラブに
売り払っていたそうです。

やがて、クリミア半島には、
犯罪者や逃亡農民が
たくさんやってきて、
勝手に住み着くようになりました。
(税金も払わずに)

勝手に住み着いた彼らは、
武装して農村を築き、
「コサック」
と呼ばれるようになります。

コサックはポーランドのカトリック教徒、
クリミア汗国のイスラム教徒と戦い、
その領土を徐々に広げていきました。

クリミア戦争

領土を広げたコサックは、
1654年にロシア帝国との間に
ペレヤスラフ協定を結びます。

こうしてロシアの庇護下に入った
コサックはクリミアを占領しました。

19世紀に入ると、
今度はオスマン帝国が
クリミア半島を支配します。

これに対し、ロシア帝国は
「ロシア正教徒保護」を口実に
軍事介入していきます。

※ここの流れ、今回の「クリミア危機」に
 似てますよね
 (ここは個人的な感想)

こうしてクリミア半島では
「クリミア戦争」(1853~1856)が
勃発します。

クリミア戦争は、
オスマン帝国とロシア帝国の戦いですが、
オスマン帝国の同盟国である
イギリス・フランスも参戦しました。

結果はオスマン帝国が勝利したのですが、
その後、クリミア半島の領有権が
どうなったのかは、
本には書かれていませんでした。

おそらく、オスマン帝国側に
領有権が移ったのでしょう。

ソ連 VS ナチス・ドイツ

1917年に、クリミア半島は
ボリシェヴィキ(のちのソ連赤軍)に
占領され、ソ連の自治共和国となりました。

第二次世界大戦になると、
今度はナチス・ドイツが
クリミア半島に入ってきます。

ナチスの侵攻に、クリミアの先住民である
タタール人(ジンギスカンの末裔)が
協力しました。

ソ連のスターリンがこれに激怒し、
1944年にクリミア半島に
ソ連赤軍を送り込み
クリミアを「解放」したとあります。

「解放」というのは、
クリミア半島からタタール人を
強制的に追い出し、
ロシア人を居住させるということです。

ここで居住させたのが、
ウクライナ人ではなく、
ロシア人なのは、当時のクリミアが
ロシア領だったからです。

そして、前回の記事でも書いたように、
クリミアは保養地として扱われ、
1954年にウクライナに移管されました。

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いっき82
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