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お金の歴史⑦ 金融革命!世界初の株式会社「東インド会社」はなぜ誕生したのか?

資本主義の拡大と「株式会社」の誕生

前章では、カトリック教会の利子禁止や王侯の戦費需要を逆手に取って進化したヨーロッパの銀行システムが、産業革命や近代的な政治構造へと結びついていく過程を概観しました。しかし、アジア・アフリカ・新大陸へと進出し、壮大な「海洋帝国」を打ち立てたヨーロッパには、もう一つ決定的な仕組みが存在します。それが、「航海単位の出資」を超え、企業組織そのものへの長期投資を可能にした「株式会社」という革新的制度でした。

大航海時代のリスクと“航海単位”出資の試行

高リスク・高リターンの遠洋貿易

15世紀末から16世紀にかけて、ヨーロッパ各国(とりわけポルトガル、スペイン、後にはイングランドやフランスなど)は新航路を開拓し、アジアや新大陸から香辛料、金銀、宝石、絹などを手に入れようと競い合いました。こうした遠洋貿易は、“当たれば莫大なリターン”を得られる一方、航海自体が台風、海賊、難破、疫病、現地勢力との衝突など、あらゆる危険を孕んでいます。大型船団の建造費や船員の給与、補給物資の調達費用など、一度の航海にかかるコストは膨大で、それを個人単位で負担するのはほぼ不可能でした。

コロンブスが新大陸発見の旅で使用した船「サンタ・マリア号」

そこで自然に生まれたのが、“航海単位の共同出資”という手法です。複数の商人や富裕層が少額ずつ出資し、船団が成功すれば利益を按分し、失敗しても損害を分担してリスクを抑える仕組みでした。これにより、たとえば一人が全財産を失う悲劇をある程度避けることができ、ヨーロッパの商人層は航海事業を積極的に運用し始めます。

「ワイン商ギルドの総督たち」、1680年頃(フェルディナンド・ボル作) 

海上保険の台頭とさらなる投資拡大

しかし、航海単位の出資だけでは不十分な場面も多々ありました。一度の難破で船と貨物がすべて失われれば、共同出資といえど損害が大きいため、投資家たちはなお慎重にならざるをえません。そこで16世紀頃からイタリアや北ドイツの港湾都市を中心に発展してきたのが「海上保険」です。船主や商人は保険料を支払うことで、船や貨物が沈没・略奪された場合に一定の補償を受け取れるようになりました。

こうした保険制度が確立されると、リスクの高さを理由に出資を渋っていた投資家も、比較的安心して資金を出せるようになります。航海単位の共同出資+海上保険というリスク分散は、ヨーロッパ諸国がアジアや新大陸へ果敢に挑戦する下地を整え、“大航海時代”を本格的に花開かせる原動力になっていったのです。

組織に“恒常的”投資する「株式会社」という発明

 継続的拠点形成への欲求

アジアや新大陸との交易が進むと、ヨーロッパ人は一度きりの航海で終わらず、継続的に拠点を形成し、長期的に利益を得ようと考えるようになります。実際、東南アジアの香辛料産地やインドの織物産地などは、一度押さえると何度でも高い利潤を生み出す可能性があるため、単発のプロジェクトではなく“企業”として扱うほうが合理的でした。こうした考え方が、従来の「航海が終われば精算・解散」というスタイルを超えて、企業として長く存続し続ける組織をつくろうという発想へとつながります。

株式という革新的メカニズム

企業組織を恒久的に動かすには、資金調達をどのように行うかが重大な課題です。そこで生まれたのが、“株式”を発行して多数の投資家から資本を募るという方法です。株式を持つ投資家(株主)は、企業の活動に応じて配当を受け取り、必要に応じて株式を売買することもできます。投資家は、海上保険などのリスク軽減策と合わせて考えれば、「一度の失敗で全財産を失う危険」が相対的に小さくなるため、ますます大胆に資金を投じられるようになるのです。

企業は企業で、航海単位ではなく長期的に安定した資金を活用できるようになり、海外拠点の建設や軍隊の維持、現地住民との交渉など大規模なプロジェクトを継続して行えます。こうして、ヨーロッパの“海洋帝国”形成を支えた「株式会社」の原型が整えられていきました。

“軍隊”を持つオランダ東インド会社(VOC)

VOC成立の背景――小規模会社の統合

17世紀初頭、スペインからの独立戦争(八十年戦争)のさなかにあったオランダ共和国は、複数の“小さな東インド会社”が乱立していました。これらの会社は航海単位で資金を集め、香辛料などを求めてアジアに進出していましたが、相互に競合して資本効率は悪く、長期的な海外拠点の整備には課題を抱えていました。そこで1602年、オランダ政府や大商人たちが合意し、これらを一つに束ねたオランダ東インド会社(VOC)を設立。VOCは企業として恒常的に存在することを前提に、多くの投資家へ株式を発行し、大規模な資本を調達しました。

アムステルダムの旧オランダ東インド会社ビル

香辛料の独占と“国のように振る舞う企業”

VOCは、政府から東インド方面の貿易独占権だけでなく、軍事行動・要塞建設・現地住民の支配権まで認められました。インドネシアのモルッカ諸島(“スパイス諸島”)をはじめとする香辛料産地を武力で押さえ、ヨーロッパで高値を付ける香辛料を独占的に取引することで莫大な富を築き上げます。さらに日本や中国とも積極的に取引し、アジア各地へ広範な貿易網を展開。アムステルダムには、こうして得た利益が雪崩のように流れ込み、アムステルダム銀行(1609年創設)が国際金融の中心として台頭していきました。

保険制度の整備も功を奏し、VOCは船団を安心して派遣でき、万一の損失があっても企業本体が崩壊しないようにリスク管理を進めていました。この体制がまさに“軍隊を持ち、国のように振る舞う企業”を生み出し、ヨーロッパ内外に大きな衝撃を与えたのです。

17世紀ビジネスマンの実像

海外赴任の現場:外交官・商人・軍人を兼ねた社員たち

17世紀、オランダ東インド会社(VOC)やイギリス東インド会社(EIC)といった大規模貿易企業には、膨大な数の社員が属していました。彼らは、半年以上もの船旅を経てインドネシア・インド・中国・日本といった拠点に赴き、現地での商談や貿易ルートの整備に従事します。とはいえ、単なる“商人”の域をはるかに超え、外交官のように現地政権との交渉・条約締結を行ったり、必要とあれば武装勢力と対峙し要塞を防衛するなど、軍人としての役割を果たすこともありました。

たとえば、VOCの社員が日本の長崎・出島で行った交渉には、江戸幕府の許可を得るための外交要素が欠かせず、さらに船舶や貨物を守るためには海賊からの防衛体制を整える必要がありました。同様に、インドへ赴くイギリス東インド会社の社員は、ムガル帝国や各地方政権と権益をめぐって駆け引きを展開しながら、要塞の築造や現地住民の徴用を行う場面もありました。こうした複合的な任務を同時にこなす人々こそ、“17世紀のビジネスマン”たちのリアルな姿だったのです。

本国オフィスの大規模事務:保険契約と帳簿管理

一方、アムステルダムやロンドンなどの本社オフィスでは、帰還した船団が運んできた貨物の品質・価格を分析し、出資者への配当を決定する業務が日々行われていました。香辛料や茶、綿織物、陶磁器など、多彩な商品が世界各地から集まるため、商品の専門知識や相場の把握が不可欠です。また、次の航海に備えて船舶・貨物を対象とした海上保険を契約し直し、台風や海賊などのリスクをカバーできるように調整することも重要でした。これらの手続きは、現在の会計・簿記制度や大規模保険の先駆けと言われるほど先進的で、アジアやアフリカの情報を素早く取り入れる情報収集能力も相まって“国際ビジネスの最前線”がすでに17世紀のヨーロッパに存在していたのです。

オランダの首都アムステルダムにある「オランダ東インド会社」(VOC)の本部

オランダ東インド会社(VOC)の栄光と衰退

 18世紀後半の苦境と1799年の解散

しかし、18世紀に入ると、度重なる対外戦争(スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争など)でオランダの財政が逼迫し、VOCも巨額の戦費負担を強いられます。さらに社内の汚職や腐敗が深刻化し、アジア各地での独占体制もイギリスやフランスとの競争で崩れ始めました。こうした経営危機が重なった結果、1799年にVOCは破綻し、その権利と債務はオランダ政府へ移される形で解散に至ります。こうして“会社として海外を統治する”という先進的モデルを実現したVOCは歴史の舞台から姿を消し、オランダも海洋帝国の主導権を失っていく一方、イギリスが台頭する流れが加速することになりました。

イギリス東インド会社の逆転劇──インド統治と世界覇権

1600年の特許状と七年戦争の勝利──ベンガル征服への道

イギリス(当時イングランド)の東インド会社(EIC)は、1600年にエリザベス1世が特許状を与えたことで誕生し、“航海単位の出資”から“恒常的な企業組織”へ移行しました。当初は資本や政治的支援が乏しかったものの、17世紀中期の清教徒革命や名誉革命を経て、議会が王権を制限し、1694年にはイングランド銀行が設立されるなど金融制度が整備されると、EICは軍事・資金両面で大幅に強化されます。18世紀半ばにはヨーロッパ本土の「七年戦争(1756〜1763年)」がアジアにも波及し、イギリスとフランスの利権争いが激化しますが、1757年のプラッシーの戦いでフランス連合軍とインドのベンガル太守を撃破したことで、EICはベンガル地方の徴税権を手中に収め、インド支配への道を切り開きました。

インド・チェンナイの「セント・ジョージ要塞」

 “企業による支配”がイギリスの産業革命を下支えする

ベンガル地方をはじめとするインド各地で要塞や行政機構を整えたEICは、現地住民からの税収や独占貿易による利益を膨大な額でイギリス本国に還流させます。これが18世紀末〜19世紀初頭における産業革命の初期段階を潤沢に支え、綿織物や鉄鋼などの産業発達を促進する強固な財政基盤となり、イギリスは“世界の工場”へと飛躍します。しかし、イギリス東インド会社による長期的なインド支配には大きな摩擦も内包され、1857年のインド大反乱(セポイの乱)を機に限界が顕在化します。最終的に、イギリス政府が直接統治へ乗り出す形で“企業による支配”は幕を閉じましたが、その間に蓄積された富と国際金融網は帝国主義時代を迎えるヨーロッパ各国に強い影響を及ぼし、19世紀後半〜20世紀初頭の植民地争奪をさらに激化させる結果となりました。

東インド会社の役人とインド人の使用人

過剰な投機熱とバブル崩壊──南海泡沫事件が映す資本主義の影

17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパでは、東インド会社のような巨大貿易企業が莫大な収益を上げた一方、株式発行による大規模な資金調達と投資の流れには、すでに“バブル”の芽が潜んでいました。その構造的な脆さを早くから示したのが、1720年にイギリスで起きた「南海泡沫事件(South Sea Bubble)」です。

 政府債務と独占貿易権──南海会社の華々しい開始

18世紀初頭のイギリス政府は、度重なる戦争(スペイン継承戦争など)で膨れあがった公的債務に頭を悩ませていました。そこで1711年、財政家のジョン・ブルントらが中心となって設立された南海会社(The South Sea Company)が、政府の負債を肩代わりする代わりに南米(スペイン領南米)での貿易独占権を得るという案を打ち出します。スペイン継承戦争をめぐる条約交渉の結果、スペイン領内でイギリス人が一定の商取引を許可されることが期待されていたため、南米市場を巡る夢物語が多くの人の心をつかんだのです。

南海会社は、国王や貴族、さらに政治家まで株主に取り込みながら、政府の債務を引き受ける見返りとして株式を発行しました。ここで株価が急上昇していく過程では、大勢の投資家が“南米での莫大な利益”を期待してこぞって出資し、まるで“当たれば巨万の富”という熱狂が社会を覆うようになりました。銀行家や貴族ばかりでなく、中産層の市民も借金をしてまで株を買い求めるケースが珍しくなかったのです。

株式投資に熱狂する人々(エドワード・マシュー・ウォード 1816–1879)

株価暴騰と社会的熱狂──“狂気”と呼ばれる投機ブーム

1720年の初め、南海会社の株価は天井知らずに上がり、政府の高官や政治家までが利益を得ようとする姿が目立ちました。会社側も、株式の追加発行でさらなる資本を取り込もうとし、強気の宣伝を繰り返します。新聞やパブ、コーヒーハウスなどで南海会社の成功談が噂され、市民がこぞって株を買い漁る“狂騒”ともいえる投機ブームが巻き起こりました。

この時期、イギリス社会では、「猫にかまれる前に南海会社の株を買え」という言葉まで生まれたとされ、“遅れたら機会損失”という集団心理に火がつきます。株価が上がるほど、さらに出遅れまいと買いが集まる構図は現代のバブル経済と同じパターンであり、投資家たちは実際の貿易見込みや事業計画の冷静な分析を後回しにしていました。

暴落と破産者の続出──政府への信用危機と社会的混乱

やがて、南米での貿易が期待ほど伸びない現実が明らかになると、投機熱を維持していた幻想は一気に崩壊します。1720年の夏から秋にかけて株価は急落し、多くの投資家や政治家が破産、あるいは大損失を被る事態に陥りました。ロバート・ウォルポール(後のイギリス初代首相)ら一部の政治家が沈静化策をとったことで国家財政の破綻は回避されましたが、政府への信頼や金融市場の安定性は大きく揺らぎ、社会的混乱が深刻化します。

 フランスのミシシッピ計画崩壊との比較─ヨーロッパ全体の不安定性

同年、フランスでもジョン・ローが推進した「ミシシッピ計画」が同様のバブルと崩壊を引き起こしていました。ルイ15世時代のフランス政府は、スペイン継承戦争の重い財政負担を克服しようと、同計画に傾倒して膨大な紙幣発行や株式投資を誘導しましたが、やはり実体のない期待ばかりが先行し、株価が暴落して社会不安が一気に高まります。イギリスとフランスで同時期にバブル崩壊が起きたことで、ヨーロッパ全体が“投機熱の余波”に巻き込まれやすい構造にあることが浮き彫りとなりました。

初期資本主義が抱える“バブル”という宿命

南海泡沫事件とミシシッピ計画の崩壊は、まだ確立されて間もない近代資本主義が「期待と実態の乖離」という根本的リスクを早くも抱えていたことを明確に示しました。企業が株式を通じて膨大な資金を集めれば集めるほど、投資家のあいだで“利益への期待”が加速度的に膨らみ、一定の水準を超えるとバブルが崩壊して大混乱を招き得るのです。19世紀〜20世紀に何度も繰り返された株式バブルや恐慌は、実はこの1720年時点でのイギリス・フランスにその萌芽をはっきりと確認でき、近代資本主義は発足当初から高いリスクと隣り合わせだったと言えます。

南海泡沫事件後のイギリスでは、ロバート・ウォルポールのような政治家が鎮静化策を進め、結果的にイギリス国内の金融・政治システムは部分的に修復に成功しましたが、投資家たちのトラウマと政府の警戒感は長く尾を引きました。こうして、人々は巨大な利益と表裏一体の“バブルの恐怖”を早くから体感することになり、後世の経済思想や市場規制にも影響を与えていくことになります。

「夜風売り」として戯画化されたバブル期の株式プロモーター『愚行の大図』(1720年)

まとめ

ヨーロッパが大航海時代に構築した保険と出資の仕組みは、船舶や航海という具体的なリスクを扱いながらも、より抽象的なレベルでは「リスクとリターンをどう分配し、挑戦を支えるか」という大問題に答えるものでした。その発想は、“航海単位”から“企業単位”へ、そして今なお続く“プロジェクト単位”や“スタートアップ投資”へと姿を変えつつ引き継がれています。

現代においても、未知のテクノロジーや新興国市場などは“当たれば大きいが危険も大きい”領域として認識され、ベンチャーキャピタルやクラウドファンディング、各種の保険・再保険などを通じて資金やリスクが集約されている構図があります。つまり、ヨーロッパの海洋帝国が目指した大航海や植民活動は、現代の“イノベーション探索”や“宇宙開発”にも似た挑戦とリスクのマネジメントが働いていると言えるでしょう。

こうして見れば、当時の株式会社や保険制度は、たんに戦争や植民地支配の道具だっただけでなく、人類が“未知”や“冒険”にどう立ち向かうかを考え抜いた結果として生まれたひとつの回答でした。私たちが今日目にする多国籍企業、ベンチャー投資、バブル経済といった現象は、いわば17世紀の“航海”を継続する形で、リスクと利益の“配分”という課題に今なお取り組んでいる表れなのかもしれません。

次章は、19〜20世紀の大戦や大恐慌、さらに21世紀のデジタル通貨・グローバル化へです

歴史を知れば、未来を予測しやすくなりますし、海外旅行が楽しくなりますよ!


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