『個性』という便利ワードでお茶を濁したくない
私は自分の病気や障害(うつ病・ADHD)による特性を
『個性』
とは捉えられません(初っ端から何を口走っているんだ?)
こんにちは、川原です。
思い付いたままを喋れない、ついアレコレ考えてしまう自分自身。
極稀に考えすぎる私について「内省的」と捉えていただけることがありますが、現実世界では
「考えすぎじゃない?」
「お前面倒くさいよ」
と言われがちでして。私も自身を「マジめんどくさい奴だなぁ」と日々嘆いてます。
「川原さんてすごく言葉選んでるよね。もっと思ったまま喋ったらいいんじゃない?」
大昔、上記のようなことを人様から言われる機会がありました。
今思えばその方の発言は決して嫌味ではなく、あくまで私のことを思って意見してくれたんですが。当時の私は今より未熟だったため
私「思ってることを好きなだけ口に出す人達がこの世に成り立つのは、陰で受け流したり我慢している人達が存在しているからですよ」
という悪態を内心呟いていた。しかし、大抵そういう場面では内心と裏腹に顔は笑ってることが多いです。勿論、私が色んな意味で最低な奴であることは否定しませんが。
落ち着け私、一体何の話がしたいんだ(錯乱中)
今となっては宮下草薙の草薙さんばりにネガティブ丸出し、自己肯定感が氷点下レベルの私ですが、幼少期まで明るい奴だったそうっすね(他人事かよ)
流行りの言葉で例えるなら「陽キャ」みたいなものでしょうか。親曰く「非常に活発で多弁な子ども」であったそうな。「活発で多弁」というのは、性格だけでなくADHDの影響もあったと思いますが。
とにかく親からは
親「お前は自分から知らない人に話しかけるぐらいうるさかった」
という、恐ろしい黒歴史を聞かされています(羞恥心で震える)
『明るい』って聞こえは良いんですが、明るいも度を越したら『無神経』になってしまうと私は考えるんですよね。『明るい人』と『良い人』は別なので。
「幼少期の私は明るかったかもしれない。しかし無神経だったのでは?」
自分の成長と共にそう思うようになりました。
過去記事でも話しましたが、幼稚園時代いじめに遭ってた時期がありました。いじめに遭った要因として真っ先に思い浮かぶのが、
『私が明るい無神経人間だったから』
と推測します。
陽気だったかもしれないが、考えが浅はかで無神経な発言を日常的に繰り返す私を周りの人達は目の当たりにし、意図せず不快にさせていたのではないか。だとしたら、それは本当に周囲の皆様に「申し訳ないことをしていた」と思います。いじめを肯定するつもりは一切ないですが、私に関しては「いじめを誘発する原因は自分にもあった」と考えます。
「故意ではないなら何をしても良いのか?」
ということで。
私がうつ病やらADHD(発達障害)なのはどーしようもない現実で、特性に日々嘆いたりボヤいたりしてるんですけど
「私はこういう病気(障害)だから〜という開き直りはしたくない」
という自戒の念(別名:1人SM)を日々抱いてまして。その自戒の動機が冒頭で主張した「個性とは捉えられない〜」にようやく結び付きます。要は
「他人との違いを簡単に『個性』と称することができるなら、当人次第でマイナス要因を『個性』の範疇に入れて自己完結できるのでは?」
という理屈が浮かぶのです。自分のマイナス要因を問題提起する機会が減ってしまい、結果その人の成長を妨げてしまう気がするんですよね。
なので私の中では
「病気・障害は個性ではなく、生き辛い事実」
という認識で生きてます。
生き辛いことが個性なんておかしいでしょう。個性で済ませようなんて所詮はキレイ事です。
辛く悲しくても、事実は受け止めて生きる必要がある。
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