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「セックスする権利〔原題:THE RIGHT OF TO SEX〕」雑感

 行為としてのセックスは必ずしも恋愛に結びつける必要はない。恋愛感情がなくとも他者を欲望する事が出来、またその欲望を否/諾する事が出来る。結局の処、セックスはそれ以上でも以下でもない形而下的問題に他ならない。恋愛はそこに様々な企てが存在する分、複雑だ。
 とはいえ、セックスは殆どの場合に於いて恋愛を含んでしまっている。だからこそその欲望のあるべき姿が見えづらい。
 セックスは相手方との行為である以上、至極私的な物でありながら性的欲望以外の流入によってややもすれば危険な社会的な現象を起こす事もある。
 アミア・スリニヴァサンによる「セックスする権利〔原題:THE RIGHT OF TO SEX〕」はセックスの出来ない男の犯した事件を皮切りに社会に於けるセックスという欲望のあり方を考えるエッセイである。

 発端は2014年5月23日にアメリカ・カリフォルニア州にて起きた銃乱射事件(Wikipediaには『2014年アイラビスタ銃乱射事件』として載っている)である。エリオット・ロジャー22歳は拳銃、ナイフ、自動車を用いて20人を殺傷し、その後、自らも命を経った。ターゲットは女性であり、その動機は「セックスする権利」を自身(ロジャー)から剥奪した女性たちへの報復である。この事件を起こして以後、彼は最も有名なインセル(incel)となった。インセルとは「不本意な禁欲主義者(involuntary celibate)」の略語である。
 この事件後、ロジャーに対して誰かがセックスをさせてやれば事件は発生しなかった、という声が出た。それに対しコメンテーターは「いかなる女性にも、エリオット・ロジャーとセックスする義務はない。セックスする権利があるという彼の意識は、家父長制イデオロギーのひとつの事例に他ならない」と指摘した。
 ロジャーは自身を「背が低く、スポーツが苦手で内気。風変わりで友だちのいない子で、クールになろうと必死だった」と言う。そして彼は白人とマレーシア系中国人との子どもでああり完全な白人ではなかった。つまり、背が高く、スポーツが得意かつ外交的。クールであり白人であれば所謂、モテた訳である。だが、そのモテる一般的なイメージ(少なくともアメリカにおいて)は言うなれば強者男性が築いてきたモデルに過ぎない。

 1960年代から1970年代のラディカル・フェミニズム運動期にセックスという行為そのものが女性の支配と服従を要求していると主張していたが、今日に於いては「道徳的に問題か否かではなく、単に望むか望まないか」という問題となった。行為自体が公的な物ではなく私的な物であるから権利も又、義務も発生し得ない。
 非常に複雑なのはセックスの行為自体は私的な物でありながら、その欲望は公的な影響を受け形成される事が多いからだろう。
 高嶺に咲く花が美しく見えるのは、その花が本当に美しいからであると同時に、得難い(希少性)があるからに他ならず挑戦し勝ち取ると言うゲーム的な運動が発生する。そこには単に美しいから得るのではなく、美しく且つ大衆からの勝者になる故得ると言う企てが含まれている。勝者ならば敗者もいる訳で、つまり上の比喩は現実に当てがうとインセルが敗者となる訳だ。
 セックスをそれ自体として扱う方法を見つけねばならないのだが上記の通り、難しい。
 
 今、私は高嶺の花の例を出したが、大衆によって決められた欲望の対象から解放される手段を筆者は書く。それがラディカル・セルフ・ラブ運動である。
 上記の運動はギャラ・ダーリンが提唱したものであり自己の容姿などについて肯定的に考え自己肯定感を上げるという物だ。つまり、従来家父長制の下で周縁化されてきた「背が低く、スポーツが苦手で内気。風変わりで友だちのいない」自分を肯定するという事に他ならない。それを運動として他者にアピールする事で大衆によって固定化されがちな性的魅力を撹拌し本当に好む物を何らの企てなしに望み又拒む事が出来る。

 社会的な我々はどのようにして自らの欲望を施行すべきか。本書は既存の社会構造を根底から見つめる一冊である。

(了)


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薄荷
是非、ご支援のほどよろしく👍良い記事書きます。