正解信仰からの脱却:最初の試み「とりあえず〇〇する」
先日、上司から頂いた「FBを受けるのに慣れていない」という一言から私は、「正解信仰」という仮説に辿りついた。
本日の論点は、その正解信仰の怖いところって実際なんなのだろう、正解信仰からの脱却と私の最初の試みの2本建てです。
正解信仰の怖いところ
先日、正解信仰のことをゲームで言うところの攻略本に例えました。
物事には正解というものが必ずあっていかに間違わず失敗せずに正解をしていく。
間違い、失敗をしたらもう人生終了みたいに捉えて過剰に反応をする。
だから、大きくて分厚い攻略本を持っていると安心する。
この攻略本は人によって形が異なり、物理的なものとは断定できない、自分の思考を丸投げしてゴールまで到着させてくれる頼れる何かだ。
人であるかもしれないし、インターネットかもしれないし、それこそ戦術の書いてある本かもしれない。
正解信仰が怖いのはその脅迫的なまでの間違いや失敗に対する態度と身体的・精神的反応だ。
間違いや失敗に対しては、間違いや失敗をしない行動を考え、人によっては、間違いや失敗をしない為に、正解を知っているもの以外は何もしないという人もいる。
間違いや失敗に対するこういった姿勢が、正解信仰者の成長を妨げ、思考を停止させてしまっている。
また、間違いや失敗を犯さぬよう細心の注意を払って生きていく中で、間違い・失敗が起きてしまった際、正解信仰者は精神的に病み、鬱にも近い状態になる。
失敗のあとどうするか?の思考の前に、失敗した事実とそれによる他者評価や、受けた返しの言葉について何度も反芻してしまう。
本来、原因やその対策等を考えるという思考のアクションを踏みたいが、失敗した事実と他者からの評価など、自分軸ではなく他人軸で自己をみて負のスパイラルに入っていってしまう。
私もそうだが、正解信仰者は評価とは他人軸で行われる物という固定概念が強くあるように思う。
実際、心の安寧にもなるであろう定性的な部分の自己評価は決して、実社会では評価されることは無いと感じる事が多く、他人から見て評価を付けられる定量的な部分にしか価値がないように思える。
その結果、定量的に評価される時間効率などを求めGoogle検索、ChatGPT、本、詳しい人、賢そうな人などに思考を丸投げする。
YouTubeでひろゆきさんに質問して答えを求めているのがいい例だと私は思う。
自己の想像で0から考えても時間効率は悪い上に失敗しかない、実社会の他人軸で見た評価からしても決して良いものではないため、答えを見る方が早いのである。
答えを見ながらやる方が早いとはいえ、書きながらそれらを否定したい訳ではない。
質問をするのも良い、検索するのも良い、本を読むのなんてむしろ良い事なのでは?
心配なのは思考停止して盲目的にそれが正しいと判定してしまいそれが常態化してしまうことだ。
常態化した結果、得た情報を自分事で置き換える事ができずそのまま写経をしてフォルダに保存するだけになってしまい、せっかく得た情報を無駄にしてしまう。
これが最も辛い。
私の最初の試み
私が私に与える最初の試みは、「とりあえず○○する」と唱える事にしようと思う。
○○に何が入るかでだいぶ意味合いが変わって来てしまうのが難点ではあるが、どんな場面であっても「とりあえず○○する」と唱えて進もうとする事を心掛けようと思う。
こうすることで間違いや失敗を犯してしまったとしても、沈み過ぎることなく次のアクションに踏み出せる呪文にしたい。