見出し画像

【読書感想文】福島次郎『三島由紀夫 剣と寒紅』

十代の頃には思いもよらなかったことに、身体の不調と、「もう二度とないかもしれない」という焦りが増えていったことがある。
なんて書くと、年寄りじみた感じになるけれど、本だって、まだまだ寿命があると思えば、また再読するだろうとかとりあえず流し読みしておくか、なんて思えるわけで、自分の人生が後半にさしかかっているのではないか、なんて考えだしたりしたら(それは二十歳であろうが六十であろうが関係なく)、もう適当に読むわけにもいかなくなってくる。

三島由紀夫関連を最近漁っているのだけれど、この三島由紀夫と関係を持って(持ってしまった、というか)福島次郎の、本人はどう思っているのか窺い知れないところですが、読者からすれば暴露本、を久しぶりに読み返した。
たしか発表当時は話題になり、そこそこ売れた。そして三島の遺族の申し立てによって出版差し止めになった。しかし近所の図書館には普通にありました。

三島由紀夫を通した私小説、という趣きの作品である。なので、三島由紀夫エピソードもたくさんるけれど(そりゃ三島由紀夫と知己を得たなんて、文学少年からすりゃもう神様と会ったようなもんです。どころか関係を結んでしまったなんか、そりゃもうって話です)、福島さんご自身のパートももちろん多くある。そりゃそうだ。「こんなボクがあの三島と」ということを説明し、自分なりになんとかして言葉にしたかったんだろうし。なのでどこか、卑屈でときおり傲慢。自分がなんとかましな者に見せたいという気持ちが漂ってしまっていて、ちょっとイライラする(すみません)。

初めて結ばれた日に、わざわざムードを出そうとでかい手提げラジオを持ってきたってエピソードや、耳元で囁かれた「ぼく……幸せ」という言葉など、初読したときは強烈であった。というか三島由紀夫の褌一丁で日本刀を持ってポーズするとか「女性とのセックスが不安なら、結婚の前に、何度かトライしてみることだね。ぼくだって、トライしたんだよ。その努力の賜物なんだよ」なんて発言も、やっぱりちょっと笑ってしまうところがある。
ただこの作品がどこかひねくれた、そしてイラつく、一番の問題は、「福島次郎は三島由紀夫の小説と才能を愛していたけれど、肉体を愛していなかった」ところだと思う。ボディビルを始める前も、仕上がった身体になったあとも。不能とか悩んでいるものの、少年とか地元の同僚とはなんとなくそういった関係になれた福島さんである。まあ辛かったろうなとは同情するけど。

そして三島の父母(自決後のお父さんの妙なテンションとかお母様の鮮やかな紅!)の書き方も見事であるし、恩を感じているのは読み取れるけれど、どこか暴露的。妻の瑤子さんに関してはどこか書き振りが「あなたの知らない旦那さんの姿をぼくは知っていますよ」的な含みも感じられる。これは私小説だと考えたら別段大したことないかもしれないけれど、やっぱりイラッとさせられる。読者は「あんたのそういうとこは興味ないから。もっと三島さんのエピソードをくださいよ」と思ってしまう。福島さんにとっては中央文壇から呼ばれたことで、頑張っているのはわかる。しかし、この本を文学とか小説として読もうとする読者はあまりいない。三島の暴露を読みたい人々がほとんどだろう。
とかいいつつ、瑤子さんが泣いて「もう男なんて信じられない」とお父さんに泣きじゃくり、福島さんを三島邸から追い出すところの、「楯の会の連中ならいいのかよ」というツッコミにはちょっと笑ってしまいました。不謹慎ですみません。

作中での『禁色』まわりの交友や、最初の断絶となった海でのこと、そして熊本旅行のエピソードなど、読んでいてわくわくする部分がたくさんある。けれど、やはりどこかで、ひねくれた、いじけたものがある。結果的には暴露なんだけれど、そうじゃないんだという作者の格闘が感じられる。卑屈で傲慢と書いたけれど、それは痛々しかったからかもしれない。

自分の書いた小説が三島に翳を与えたのではないか、作中人物に次郎という名が多いのは……(出会う前から次郎という名は使われていたけれど)、どうにか自分が三島に影響を与えていたのではないか、と恐る恐る、でも傲慢に書く様子は、まさしく私小説だった。卑屈で、矮小で、卑下しているくせに自分はそうではないと言いたくて仕方がない姿は、人間そのものだった。
ときおり読んでいて腹も立ったけれど、捨てがたい。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集