【連載】“クソったれ”な日本の教育#10:学校とはどうあるべきか
「【連載】“クソったれ”な日本の教育」は、教育者である私が日本の学校教育に物申すコラムシリーズです。教育者から見える日本の学校教育が、どれほど“クソったれ”かを、怒りと皮肉たっぷりでお送りします。
前回の記事はこちら。
https://note.com/ikes822/n/nbcf782379c0c
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学校というのは、児童・生徒・学生のためにある、ということを否定する人は世界中を見渡してもいないだろう。若者の教育の場は、よりよい未来を創造する場である。
ところが、そんな本質とはかけ離れた教育が現実では展開されている。イリッチが指摘するように、教育は教育者の権威を高める場所になっているのだ。
感性を高める成長期に、権威とは何たるかを示す学校教育。学校教育を悪質な権威主義者たちに明け渡すわけにはいけない。
教育現場の違和感
日々学生と関わる中で、類まれな能力を持った人と出会うことがある。語学力が素晴らしかったり、私が長年かけて経験的に得た知識を既に身につけていたり、他者への思いやりに長けていたり。とにかくそういう人は、将来グローバルリーダーとして活躍する可能性が高い。
先日も、そんな学生と協働で作業していたのだが、私は終始居心地が悪かった。それは、礼儀がなっていないだとか、気が合わないだとか、そういう理由では決してない。むしろ、その不自然なまでの「礼儀正しさ」が私を不安にさせたのだ。
つまりその学生は、文書の作成にあたって、細かな言葉遣いの変更まで逐一、私に許可を求めてきたのである。私だけではなく、私が書いた言葉にまで最大限の配慮を持って接するその奇妙さに、私はどうしようもなく混乱した。
断っておくと、私は決してその学生を責めているわけではない。それがその人なりの教師へのリスペクトであるし、行為自体には全く以て批判の余地はない。むしろ、それだけ「礼儀を身に着けた」学生を尊敬さえする。
ただ、同時に、この学生を作り出した学校教育というものに恐怖を感じたし、また自分が大学教授という地位でもってそれを補強していることに絶望した。
そして、何もこの学生に限らず、多くの学生が「教授の言葉を訂正する時には許可を取る」ということを、「礼儀」だとして認識している。つまり彼らにとって、私の発言がどうであれ、この口から発せられた言葉は絶対的に正しいので、万が一修正をしたい場合には、私に正しさを上書きしてもらわなければいけないのだ。だからこそ「許可」がいる。
権威である私、大学教授を名乗る私に対して、最大限の配慮と尊敬を持って、許可を得る。これが当たり前の価値観として存在する教育システム。これこそがイリッチの言う「学校の宗教化」に他ならない。
経済に組み込まれない教育の姿
唯一救いと言えるのは、私が権威主義が大嫌いで、イリッチの立場に賛同する人間ということだ。私は、学校教育が、教育業者や関係者の延命のために利用されているという現実を認識している。
ただし一方で、脱学校やフリースクールの導入に賛成の立場であるにもかかわらず、私の夢は「学校をつくること」である。矛盾であることは承知だが、イリッチに共感する今でも私の夢は変わらない。
理想とする学校。私の思いに共感する人が集まる学校。オルタナティブとしての学校。
思えば、私が主宰するAAEE、一般社団法人アジア教育交流研究機構という団体は、その雛形である。
この団体は収益化していない。「カネを生み出さない」ことを明言すれば、業者は近づいてこないからだ。
かつて、私は「英語学習の動機づけ」という分野に注力していた。例えば、TOEICのスコアを上げるためにどう自分を動機づけ、その動機づけを維持させるか、ということに多くの教育業者が食いついた。学校という場所を使って、利益を得て、食べている人たちに、私の研究は、言うなれば‟利用‟された。もちろんだからこそ、お金が回り、人が動いた。16年前に出版した本が、2021年になっても重版されているのは、そのおかげである。
それに比べると、AAEEはお金をもらわない非営利団体だ。国際交流プログラムだって、現地での寝食にかかるお金以外一切貰っていない。学生アシスタントと共に夜な夜な議論を続けて作り上げたプログラムを市場には組み込んでいないのだ。脱学校論者として、学校以外でも学びを提供できるようにするという姿勢を持って真摯に取り組んでいるので、お金をかけなくてもクオリティを保証出来る。
ただし、「カネにならない」のでどの教育業者からも声はかからない。それどころか、批判さえされている。彼らの言い分はこうだ。
「あなたたちが、こういうことを続けると教育業者は潰れてしまう」
「タダで国際交流プログラムをやられてしまうと、十数万円もらって実施している我々は生きて行けない」
「あなたたちのやっていることは、経済を成り立たせなくしている」
「我々には養う家族がいる。それをよく考えてほしい」
これで、教育業者が生きながらえるために教育が存在しているということが明らかだろう。学校教育はもはや破綻しかけている。
学校とはどうあるべきか
経済的な観点で言えば、この団体は教育界を壊しているのかもしれない。でも私は、自分が生きてきたうえ、とても自然なことをしているに過ぎない。教育とは学生のためにあるべきとあり、そのイメージの中で学校を再構築する試みを、私は行おうとしているのだ。
もはやその点で、批判をものともせず割り切っているわけだが、私が何を目指すかと言えば、フリースクール的な学校である。そこでは、興味関心を持った人たちが集まり、学生主体で学習が進んでいく。教師は助言者として、経験・知識を共有し、学生がそれを受け入れるという雰囲気が求められるだろう。
50代の私が教授という立場で経験・知識を一方的にぶつけるよりも、経験した者がそれを共有し、学生が感性を養うという形式の方がよっぽど「教育的」だ。つまり、地位の差を超えて学び合うという空間を実現すべきである。
私の描く社会貢献は、自分が見て来たもの、経験してきたものに基いて得た価値基準を若い世代に見せることである。そのための労力は厭わない。ビジネス界に生きる人々の気持ちもわからなくはないが、私なりの価値基準を貫くため、多方面に良い顔をしているわけにもいかない。
文化相対主義と多文化共生の観点で考えた時、ある意味で、私の思い描く学校はカオスかもしれない。なぜなら、一人一人が自身の関心をもとに集まり議論を交わすからで、収拾のつかない話し合いが起きることが予想されるからだ。しかし、裏を返せば、皆が全く同じ思いを抱えている場所というのは恐ろしい。
もちろん、カオスには対立も含むだろう。しかし、そこで価値観をぶつけ合うことは決して他者への思いやりを捨てることではないし、むしろ他者への思いやりがあるからこそ何かを心配することなく自由な議論を持てるのだ。そこで生み出されるものは、新しい視点であり、イノベーティブな意見のはずである。
東京オリンピックが近づいている。読者の中には、賛成の人も反対の人もいるだろう。私が描くのは、私の意見がどうであれ、あなたの意見がどうであれ、さまざまな意見の人がそれをぶつけ合える場所に他ならない。賛成意見も反対意見も堂々と言えること、それによって迫害されない社会、そういった意味での心理的安定性を担保した場所を創造したい。
それは理想論だと言われるかもしれない。だが、たとえいくら非現実的であれ、私が生きてきた道、これから生きたいと思う道を考えれば、この教育の姿は私にとって紛れもなく「リアル」である。それを追及することが私の使命だ。
<完>
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編集:関昭典、永島郁哉
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