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『くるみ割り人形』は差別なのか?

差別的だから中止へ


先日、このようなニュースを目にしてふと疑問に思った。

『くるみ割り人形』が消える?「人種差別的」と欧州のバレエ団が公演中止・改変

ベルリン国立バレエ団は先日、この『くるみ割り人形』を演じないと発表した。その理由は同作品が「人種差別的」だからというものだ。だが不適切と判断されたものは、抹消すればそれで済むのだろうか?

NewSphereより

『くるみ割り人形』は、チャイコフスキーが作曲したバレエ音楽で、1892年に初上演された。

内容は、クリスマスイヴの夜、クララという少女の家で盛大なパーティが行われていた。風変わりな叔父さんから、あまり可愛くないくるみ割り人形をもらったが、周りの目を気にせず彼女は大事に扱った。
パーティーが終わり、静かになった深夜、鐘の音がなると同時に、クララの身体は小さくなってしまい、人形の世界へと入っていった。くるみ割り人形は、仲間たちと戦い始めると、負けそうな姿にクララは手助けをした。すると、人形は突然王子へと姿を変え、クララを自分の国へと案内した。
くるみ割り人形は、お菓子の国の出身。そこには、女王の金平糖、スペインのチョコレート、アラビアのコーヒー、中国のお茶、ロシアのトレーパークといったお菓子の国の踊りを見て、悦びに満ち溢れた時間を過ごした。

そして、目が覚めると、そこは居間のソファー。
全ては夢の中のできごとだったという物語。


前述のニュース記事によると、ベルリン国立バレエ団は、アラビアの踊りと中国の踊りに人種差別的な表現があるとした。

約130年前の作品であるため、国の文化や人種の違いを差別という意識なく、異国の特徴をただ切り取っただけだと考えられる。しかし、現代において、その国を知り・触れたことのある人なら、その差異に違和感を抱くことは容易に想像できる。大勢が携わるバレエ音楽だけあり、様々な意見が出ることもあり得るだろう。
現代において、バレエやオペラなどの芸能の世界では差別的と感じられる部分については、割愛や変更をし演出の見直し、または中心に踏み切ったようだ。


本当にこれでいいのだろうか…



日本の古典芸能


話題を日本の古から伝わる伝統芸能へと移そう。

落語家や漫談・浪曲・紙切りなど、毎日出会える寄席という場所がある。
今、この劇場で急激な賑わいをみせているのをご存知だろうか。その中心的人物が、

講談師 六代目 神田伯山


2020年、真打に昇進した講釈師 神田松之丞(まつのじょう)改め、神田伯山(はくざん)。寄席だけでなく、ラジオやテレビなどあらゆるメディアに引っ張りだこになっている。100年に一度現れるという幻の講釈師が君臨。38歳で既に備わった貫禄や話芸はもちろん、クセの強い人柄においても、師匠たちからも一目置かれ、瞬く間に愛好家を増やしていった。


真打昇進すると同時に開始したYouTube『伯山ティービィー』は、2021年12月25日には、登録者はついに20万人を突破した。

寄席の舞台裏を密着するカメラや、講談放浪記、人脈を活かした多岐にわたるゲストとの対談など、テレビでは放送されない講談にまつわる話が満載で見応えがある。
その中で、特に大盤振る舞いをしているのが、講談を作品として掲載していることだろう。これほど価値のある和芸を、無料で提供するという行為に戦いてしまう。だが、簡単に聴いて納得できるほど、素人には優しくない。何度も聴いて耳を慣れさせる必要があるようだが、これは "沼" への一歩と言えるだろう。

講談は、歴史や人物を伝える物語が約4500話もあるようだ。江戸時代から始まったと言われ、その当時の作品を現代まで師匠から弟子へと受け継がれてきた。当然のことながら、言葉使いも違えば生活習慣も違う。よって、差別や倫理感は、現代にそぐわないことも多分にある。

だが彼は、くるみ割り人形のように割愛することはない。配慮した上で、一つの芸術として語り継いでいる。古典の物語をYouTubeで公開するにあたり冒頭でこのような文言を出している。

現代では不適切な表現が含まれれいる箇所がありますが
古典芸能として台本を尊重し、そのまま収録してあります

伯山ティービィー
「天保水滸伝」より


まさに、この一言で済むのではないだろうか。


くるみ割り人形も、130年前の作品だ。生活様式も考え方も違って当然。現代との差異を突くよりもっと、130年前に生まれた作品が、途絶えることなく世界中で上演される大作になったことをもっと讃えるべきではないだろうか。



イタリア人が日本を表現

かつて、イタリアの片田舎のオペラ座へある作品を見に行った。これも約120年前の作品だ。アメリカで発刊された短編小説が、イタリアでオペラになった。日本人にまつわる作品といえば…

『蝶々夫人』


芸者である蝶々さんは、15歳の時にアメリカの海軍兵ピンカートンと結婚。改宗し彼と一生を添い遂げる思いでいた。しかし、任務を終えた彼は単身アメリカへ帰国。ずっと帰りを待つ傍らには、小さな赤ちゃんが。ピンカートンとの子どもであることをなかなか伝えれずにいた。他の人との結婚を進められたが、愛を信じ拒否。全てを知ったピンカートンは、突如新妻と姿を現し、子どもを渡すよう告げた。承諾した後、蝶々さんは自害する…


アメリカ軍と日本人との恋は、オペラにする上で見るに鮮やかな作品になることは、誰にも容易く想像できるものだ。しかし、120年前のイタリアで、日本という国はまだまだ極東の未知の国。衣服・宗教・暮らしぶりなど手探りで演出されていったことは、今の作品を見ても感じ取れる。
だが、演出家らが幾度となく研究をし続け、今日まで作品として継承してきたことを、私たちはもっと着目するべきではないだろうか。


日本人から見た舞台

実際に、『蝶々夫人』のオペラを見て、やはり「実際とは違う」と感じる点はいくつもあった。まず、化粧や着物といった身なり、家の間取りや拝み方、所作はどれも、本物とは違い上げていくとキリがない。だが、物語が進むにつれて、そんなことは重要ではないと感じるほど、どんどん引き込まれていく。
女と男の愛の物語は、見た目は二の次で、心情に一喜一憂するのが醍醐味。言葉を超えた万国共通の感情に訴えかけるものがある。
実際に、イタリア語を学んでイタリア人によるオペラを見たところで、完璧に把握はできていない。だから、事前に予習をすることで、作品をより深く味わうことができた。



ラジオの生放送で失態


放送業界では、コンプライアンスに沿って番組を作る。放送禁止用語への配慮や事件を起こした人にまつわる音楽やCMは突如差し替え対応している。


かつて、日本のAMラジオ局に勤めていた際、昼の生放送のディレクターをしていた。その中で「19○○年の音楽ランキング」を毎月企していた。当時25歳の私は、流行歌や歌手は一通り知っていても、全てを把握しているわけではない。

この日、1978年の音楽ランキングをかけていると、部長がラジオセンターからスタジオへ勢いよく駆け込んで、突然こう言った


「誰がこの曲を選んだの? かけちゃダメでしょ!」

その音楽とは、
「時には娼婦のように」/黒沢年男


今でもこの曲のサビは歌える。陰湿で色気ある黒沢年男らしさをふんだんに感じられる。だが、この曲の”娼婦”は、職業差別ということから放送禁止用語になっている。
そんなことは知らない25歳は、堂々とランキングの音楽としてレコードに針を落とした。周りの大人たちは、誰も止めることはなかったので、もちろん何の疑問も抱かなかった。

この後反省会で、放送したことが、正解か間違いだったか論議することになったが、答えは「かけない方向で…」と、わだかまりを抱えたまま封印した。レコードに一言文言を入れてくれていたらこんなことは起こらなかったと、今なら部長に言えるが当時はまだ青かった。


過去を否定しない


歌劇、演劇、講談、和芸、音楽、言語など流行あるものは、時代を大きく反映する。今私たちが当たり前にやっている何かが、100年後に違和感を抱かせるものになる可能性は多いにある。

放送人は、会社の方針に従って番組を作るべきだ。そうすることで社会の秩序を保つ一役にもなる。だが、個人の意見として見解を持つのは有意義なことだと思う。みんな同じ方向を向く必要はない。現代はメディアの人間でなくても、ネットにより誰でもメッセージを発信できる。我々市民は、発言の自由が平等にあることを忘れてはいけない。


古典芸能は、先人が汗水を流して懸命に創り上げた作品。それを現代で否定することは、彼らを傷つけ侮辱することになりうる。とても気持ちのいいものではない。宗教や文化の違いも、抗うと戦争になる。ウィンウィンという言葉がもてはやされるように、他を認め、ありのままを受け入れる度量を持ち続けたいし、見る側も寛容に眺める必要があるだろう。

そもそも、クリスマスも日本人からすれば不思議な行事だ。それを本場のクリスチャンたちが見たら甚だおかしいに違いない。だが、これも文化。大いいに喜びを分かち合いたい。

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