私の中の「きれいにまとめすぎる問題」
「きれいにまとめてくださってありがとう」
「あのまとまらない話を、よくぞここまでまとめてくださいましたね」
インタビューイや取材相手から、ときどき言われる言葉。先方にとっては心からの褒め言葉なのだろうし、ライター冥利に尽きるうれしい反応だな、と思う。でも私はここ数年、そういった言葉を受け取るたびに、少し心にざわつきを覚えるようになった。
「きれいにまとめる」ということ
メディアの記事において、「きれいにまとめる」とは。
インタビュー記事なら、相手の伝えたいことの本質を捉えて、そのほかの文脈は本質を伝えるための枝葉として構成し、一貫性のある記事として執筆すること。
対談・鼎談記事、イベントレポートなら、一連のやりとりの末の「結論」や見出した「意味」、「価値」のようなものを捉え、ときには順序も入れ換えながら話の展開を再構成し、筋の通った記事にまとめること。
…といったところだろうか。確かにそのようにまとめられた記事は読みやすく、わかりやすく、読者にとって扱いやすい。いわゆる「いい記事」としてSNSでシェアされることも多いだろう。
だけど一方で、その「まとめる」作業の過程で、「味わい」や「雑味」、「混沌」「ざらつき」といった、現実のやりとりでは必ず存在するものが、失われていないか。
私の心のざわつきは、そんな思いから沸き起こったものだ。
「雑味」を抱きしめる
インタビューや取材の現場では、「雑味」が確実に発生する。
「雑味」とは、
飲食物に混じって、本来の味を損なう不純物の味。
だそう。そう、「不純物」。
たとえば、インタビューイが脱線してしまって本筋とは違う話を1時間もかけて話していたり。話しているうちに、「あれ?何の話でしたっけ?」ってなってしまったり。対談・鼎談では、2時間かけて対話したあと、「全然まとまらないですね〜」ってみんなで苦笑いすることもしばしば。「あとはライターさんの力量におまかせするってことで!笑」なんて無茶振りで場がお開きになることだって、まあ良くある。
ライターをはじめたばかりの頃は、そんな現場で「うわぁ、どうしよう…」と困惑し、「いかにきれいにまとめるか」と格闘していた私。雑味を取り除き、まとまらない話になんとか道筋を立て、うまくまとめられたときは、それこそ極上の「快感」を得ていた。「おまとめ上手!」は、当時の私にとって最大の褒め言葉だったのかもしれない。
でもやっかいなことに、あるときから私は、これまで困惑の種だった「雑味」を愛し始めた。きれいじゃない、一筋縄にはいかない、ときに本質と真逆を行くような、混沌とした人間っぽさや現実がたまらなく愛おしく、抱きしめたい心境に陥った。
本質ではないけれど、普通ならカットするけれど、確かに一定の温度を持って存在した雑味。全然まとまらない対談が最後までまとまらないまま混沌として終わり、あぁ、現実ってそうだよね、人間そのものだよね、って思えると、心がおおらかになり、あらゆることを肯定できる感じがした。そこにこそ、この社会を生きる面白さや価値が存在するように思えた。
「雑味」を表現する挑戦
そうすると、今度はその「雑味」を表現せずにはいられなくなった。生の取材現場に立ち会えるのは、ライターの特権。であれば、雑味もそのままに届けなければ、読者にもインタビューイにも失礼なのではないか。カットしてしまっては、嘘を付くことになるのではないか。そう気づいてから私は、雑味の表現を試みるようになった。
行間に匂わせたり、写真のキャプションに入れてみたり、記事の本筋とはちがうところから手を入れ始め、対談などでは「雑味」を極力残し、読者が「ん?」と思うような章を挟み込んでみたり。
でもやはり読者の方を向くと、記事における「わかりやすさ」や「読みやすさ」が大きな価値になることは痛いほどわかっていた。それにもちろん雑味の表現は、取材先、インタビューイがそれを受け入れてくれるという条件付き。雑味をそのままに記事にすると、カットをお願いされることもあった。「インタビューのとき確かにあなたが口にした言葉を、勇気を持って抱きしめてみませんか?」そんな私の提案も、やはり困惑されることもあった。そう、当人にとって「きれいじゃない自分」の一面を見せることは、とても勇気の要ることなのだ。そういうときは、取材先の意志を優先しつつ、あれこれ模索を続けた。
でも、ライターでありながら編集者でもある私。結局は編集者と話し合いの末、上手に「まとめて」しまう自分がいた。
この挑戦による変化はとても小さく、おそらく「味わい」が加わった程度。読者に満足していただけるような雑味の表現方法なんてわからなかったし、雑味を表現することはただの自分のエゴのようにも思えた。
「きれいにまとめない」記事づくりって、難しいのだ。
読者や取材先とともに成長する記事とは?
でもあるとき、はたと気づいた。きれいにまとめてしまうと、読者に「答え」しか提示できず、思考停止に導いてしまわないだろうか、と。雑味を取り除いたところで「この人の話の本質はこうです」と私の解釈でまとめきってしまうと、当然のことながら読者の思考も、そのまとめに誘導される。もしその取材現場に読者がいて細かな文脈もすべて感じていたなら、まとまらない話を一生懸命自分なりに解釈しようとして、他のところに本質を見出していたかもしれないのに。
さらに言えば、きれいにまとめた記事は、読者と取材対象者の距離が遠くなってしまう。「すごい人だなぁ」という読後感は、ときに「私にはできない」につながってしまう。インタビューイの方にとっても、きれいに表現された記事が世に出回ってしまうと、そのまま、ありのままの自分を抱きしめることができなくなってしまうかもしれない。ぐちゃぐちゃな不純物のある人間という存在や社会そのものを抱きしめて肯定する、そして、自分という存在を肯定する。これが、私が「書くこと」を通して実現したいあり方。
きれいにまとめた記事は、いい記事と言えるのだろうか…?
もちろんライターなりの「答え」を持って書くことはとても大事。読みやすさも、もちろん大事。職業ライターとして、読者を迷子にしてしまってはいけないと思う。でも私は、記事を通して、「答え」以上に「問い」を受け取ってほしいと思っている。私の「答え」をそのまま受け取るのではなく、そこから自分なりの「問い」を見つけ、思考を働かせてほしい。自分を「問い」、自分なりの「答え」を見つけ、行動に移してほしい。
少なくとも私が読んでいいと思うのは、そういった読者の、いわば自走を後押ししてくれるような記事。読んで、自分が成長させてもらえるような記事。
せっかくなら、私の記事を通して、読者のみなさんに、考え、学び、成長してほしい。インタビューイの方とも、ともに成長していきたい。そのくらいの影響力を持った記事を書いていきたいと思っているし、無数にあるウェブメディアの記事に触れて成熟してきている読者のみなさんや、取材を多く受けている方は、今、そういったものを求めているようにも感じている。(「成長してほしい」なんて、おこがましいけれど、敢えてこう表現してます)
どうしたら書けるのだろうか。少なくともそれは、「きれいにまとめた」記事ではない気がする。
「きれいにまとめすぎない」記事づくりという冒険
ここはひとつ、読者を信頼して、インタビューイと手を取りあって、冒険してみよう。
そんな想いが高まり、再び私の「きれいにまとめすぎない」冒険が始まった。以前のような執筆上の小手先の工夫ではなく、記事づくりのプロセスから、まとめない、決めない、ありのまま、といったことに着目。ここ最近、まずは親しいインタビューイのみなさんとともに、いつもと違うスタイルのインタビュー・執筆を試みている。
たとえば、これまでは構成をしっかりと見定めてから執筆してきたが、リードから結論まで、流れるように書いてみたり。たとえばこの記事。インタビューの余韻そのままに、心惹かれるままに書き綴った。インタビュー中、インタビューイの言葉から私が感じたことや次に湧き上がった問いもそのままの流れで描いたこの記事、読みやすくはないかもしれないが、現場に立ち会ったような気持ちになってくれたらいいな、と。
また、記事化を想定せずに友人に会いに行き、とにかく「雑談」を交わしてみる。そのまま持ち帰り、自分の中で咀嚼して、記事化できそうだと感じたときは、書いてみる。ダメならもう一度、会いに行く。そんなゆるやかなスタンスでインタビューし、カメラマンさんに「お茶会の記事化!(笑)」と言われた記事が、こちら。眩しいほどの活躍を見せる彼女の、迷いも葛藤も、現場の空気もそのままに、現在地を表現することを試みた。そして近々、彼女にもう一度会いに行くことにしている。つまりこの記事は、彼女の人生のプロセスを描いたもの。本当の価値は、今度彼女にもう一度インタビューしたときに表れてくるのかもしれない、と、ワクワクしている。
「教育」をテーマにしたイベントでは、登壇者たちに明確な2つの「問い」が掲げられたが、2時間という短時間で「結論」は導き出されなかった。その場の雑味も混沌もそのままに表現してみたのがこちらの記事。教育というものの一筋縄にはいかない難しさ、混沌とした今の学校教育の状況も、そのままに映し出すことを目指した。答えがない分、読者の思考が自走していくのでは?という実験的記事。
“きれいにまとめ癖”が滲みついてしまっている私、少しは脱皮できているだろうか。記事からざわつき・ざらつきを感じていただけるだろうか。どうしようもない現実もそのままに抱きしめる、そんな記事のあり方から、自分なりの問いを受け取っていただけるだろうか。
まだまだ冒険できる気がしているので、もう少し続けてみようと思う。今度は学校づくりをしている方に、開校前、開校後の2回会いに行ってお話を聞き、その違いや変化のプロセスを描いてみたいと思い、現在アポ取り中。「言ってること、開校前後で全然違うじゃん」ってなるかもしれない。そうなったら、おもしろいな。評価は分かれることは承知で、結果を求めず、しばらくこんな冒険を繰り返してみたいと思う。
もちろんこの冒険は、取材先やインタビューイ、掲出するメディアの理解ありきのこと。取材先が抵抗を感じるならば、それはただの私のエゴなので、きれいにまとめることもいとわない。ライターの責任として、そういう仕事もまっとうする。でも、私の試みを理解し、一緒におもしろがってくれる方々と一緒に、雑味を抱きしめる冒険に出てみたい。
この「きれいにまとめ過ぎる」問題、まだ自分のなかで「答え」はまとまっていない。でもテーマがテーマだけに、このnoteはあえて、まとめずに終わってみようと思う。
読んでくれたあなたが何らかのざわつきを感じてくれたら、本望です。
(アイキャッチ画像は、子どもたちの絵。きれいにまとめようとせず、評価を求めず、自由。私の好物です。)
貴重な時間を割いて読んでくださったこと、感謝申し上げます。みなさんの「スキ」や「サポート」、心からうれしく受け取っています。