#1「吉田松陰」 〜激動の時代を生きたヤバ偉人伝 (下巻)〜
皆さんお疲れ様です!タローです!🤟
今日も書いちゃいますよ!
では早速前回のあらすじを〜
野山獄で日々勉強をしていた松陰。
次第に囚人や看守までもが集まり、夢中で松陰の講義を楽しそうに聞いていたそう。
こうして松陰は、獄中で生きる気力を失っていた囚人等に対し「人生とは何か」を説き、人々の生きる希望を見出したのです。
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10. 松下村塾を開塾する
1856年、収監されて約1年半後に、松陰は野山獄を出ることになります。
※松陰は獄中でも千冊以上の本を読んでいたそうです。
その後出獄した松陰は、杉家より謹慎処分を受けました。その中でまずは家族や親戚などの身内に対し、講義を始めました。
次第にその噂は広まっていき、近所の子ども達も自然な形で集まり始め、松陰のもとで勉強をし始めました。
段々と人が増えてきたのもあり、松陰は叔父の玉木文之進が元々始めていた「松下村塾」の名を引き継ぎ、開塾しました。
※ 松下村塾で学んでいた主要メンバーには、初代内閣総理大臣の伊藤博文や、騎兵隊を創設した高杉晋作などがおり、優秀な人材を多く輩出した塾でした。吉田松陰の教育がいかに凄かったかが分かるエピソードです。
11. ハリスと大老・井伊直弼
1858年になると、アメリカのハリスが日本と貿易を行う事を考え、「日米修好通商条約」を締結しようと持ちかけます。幕府はこのアメリカの動きに対し前向きでした。
理由としては、イギリスなど西洋諸国と戦争になり、負けて不利な条約を結ぶよりは、今ここで中立な立場でいるアメリカと条約を結ぶ方がまだ安心と考えたからでした。
これに対して松陰は、
「今通商を開けば、国は大混乱に陥り、アメリカの意のままになります。通商は断固拒否し、3年のうちに国力を強くし、こちらからアメリカに行くべきです。」
このように考え、申し出ました。
しかしハリスからの圧力もあり、3年も待てないと感じた大老・井伊直弼は、ついには修好通商条約を天皇の許可無しに結んでしまいました。(違勅調印)
12. 安政の大獄
この条約締結までの一連の流れを知った尊王攘夷派 (外国人を追い払いたい派)の人は怒り、井伊直弼や幕府に対して、激しく抵抗しました。
この尊王攘夷派の激しい抵抗を沈めるべく、井伊直弼は「安政の大獄」を打ち出し、抵抗をする者に処罰するなど対策をしました。
13. 徐々に狂い出す松陰先生
開国を焦ったことで、不平等な条約を結んでしまったんだと、井伊直弼や幕府に対して松陰も激しく怒りました。
一方で、水戸藩が大老・井伊直弼の暗殺計画を立てていることを知り、自分も井伊直弼の下で働いている間部詮勝 (まなべあきかつ) の事を襲撃しようと考え始めました。
しかし、当時まだ謹慎中だった松陰はあまり自由に動くことが出来ず、藩に対し協力を煽いだものの、藩からは落ち着いてくださいの一点張りでした。
そして高杉晋作ら弟子達にもお願いするも、「今は冷静になった方が良いかと思います。」と意見を否定されてしまいました。
弟子たちのこのような判断に対し松陰は、
「これは自分の功績の為の行動ですよね」
と強く反論します。
こうして、松陰と弟子達の間にも溝が出来てしまいました。
14. 留魂録と松陰の最期
安政の大獄により、梅田雲浜 (尊王攘夷派の儒学者) という男も捕まってしまったのですが、この男は吉田松陰とも交友があり、よく話をしていました。
それに目をつけた幕府側が松陰を江戸へ送監し、取り調べを行いました。
「梅田雲浜とはどういう関係だ?」と実際に問いただした所、
「私は老中の間部詮勝を襲撃しようとしました!」
と全く関係のない事を幕府に自白してしまいます。
それにより、幕府側は松陰を捕まえて江戸の牢屋に監収しました。
当時の幕府はかなり、厳しく取り締まっていることもあり、松陰は自分もいずれ処刑されるだろうと悟りました。
そして塾生達に対して「留魂録」を書きました。
留魂録には、塾生に向けて、将来の日本を良い方へと変えていって欲しい!等といった、熱い長文のメッセージを書き綴りました。
こうして松陰は1859年に処刑され、29年という短い人生の旅を終えたのです。
今日もありがとうございました!🌏
ぴーちゃん🍑