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月夜の戯言〜歩み寄りの心~

NLPや心理のトレーニングで、スキル的な意味で人と話や感覚を合わせるのが上手くなりました。

雑談力を高めようと思ってから数年経つので、それなりに話題には困らないと思っています。嫌な人とも話すことはできて、笑顔を引き出すスキルみたいなのは身についています。

しかしながら策士策に溺れるで、一人とは話を合わせられるものの、同じ空間でいがみ合う二者三者の意識をひとつにするのはカリスマ性のようなスキルになるのでこれがまだ弱い。

一対一では上手く立ち回っていても、ほんとに譲れない時には男斑鳩ハッキリ言うものでなんでそっちの肩を持つのか、私の味方でしょう?などと言われることも。

そういう人は全体が見えてない。私が場を収めようとすると、「あなたは私の味方でしょう?」違います。敵でも味方でもなく、私は私。
意見が合う時もあれば違う時もある。
それを認められなければ仲間でもなければ友人でもない。

「すごい、この人なんでこれまで全部分かってくれてたのに今、反対のこと言うの?」と言わんばかりの態度は非常に面倒くさく退屈を感じます。
頭の善し悪しはIQではなくて、理解力でもなく、歩み寄りの気持ちだと思っています。

残念ながら、先に述べたような事案の時は、ハッキリ事実を伝えます。
「私の虚像を作り上げていたのはあなたでしょう。私のことを、よく見ていなかったのはあなたの方ですよ。私はそれが悲しい。」と伝えます。

すると相手は怒ります。当たり前ですが。
斑鳩も人間ですので、
そこが折れることが出来ない。

私の中では本来の目的(仕事なら仕事、友人なら友人関係の継続etc)が達成されればそれでいいという所感なのですが、それが二者三者といると思惑が交錯して面倒に繋がるわけです。

人を嫌いになることはなかなかない人間ですが、嫌いな人間が一定数います。

それはタイプでいえば
・腹の中を見せない人…関係性によりますが、多少仲良くなってもこちらの自己開示に応じない、腹の中を見せない人は気持ちが悪いですね。

・自己中心的な人…話を遮るのはナンセンス。自己中心でいたいなら鏡と会話すればいいのです。

・知った気になる人…認識のすり合わせは大事です。だいたいあってるは合ってません。言葉の定義がズレてると疲れます。

・攻撃的な人…基本的に人を悪くいうのは好みません。恥ずかしながら、感情的になるのは私もありますが小説でも書いた方がいです。日記とか。人に毒をまくなら他でやってくださいと思っています。
(書くと色々出ますね)


そんなこんなで、私を例にとって申し訳ないことですが、突き詰めると、他人と他人は思考や言葉の誤差が多いし、本来的に他人と話すのは非常に面倒くさいことであります。

それでも私が人と話したいのはその人を知りたい気持ちがあるからで、相手もまた知りたいと思う歩み寄りの連続によって人は関わってるのだと思います。

相手を変えるよりは自分が変わる方が早いと思うから私は話せるように言葉を学びました。理解できるように俗っぽい言葉も吸収したいと思っています。(なかなかエモいとかぴえんの定義がわかりません)

英語なら英語で日本語なら日本語で話すように、私たちは斑鳩語があればこれを読んでいるあなた語が存在するわけです。(詳しくは脳の持つ質感・クオリアやメタ認知)

言葉に囚われ過ぎるのもどうかとは思いますが、人間性は言葉に現れます。語彙がどうこうではなく、「伝えようとする心」が一番大事なのかもしれません。

それはそれは大事なことなのです。特に現代においては。


斑鳩入鹿

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