いつだって庶民は戦ってきたが…
今日における政治不信について考えていた。ワクチン接種の義務のような圧力、マスク必須の風潮を"ちがう"と言っていたのは一部の人で、大多数がどうなったかは認識の通りかと思います。
コロナ禍をひとつの節目とすると、もう一つ前はなんだろうかと考えました。思いつくのは東日本大震災でしょうか。当時は原発の稼働について不安になり原発は正しいのか?という議論もありました。
しかしながら、今となっては原発がないと電力が賄えないという言説で、反対という方の比率は当時に比べてどうでしょうか。
パンセを読んでいて冒頭の言葉に出会いました。流行のような言葉、流行のような意見。これが一種の正義を形作るのかもしれません。
退屈な夜に出会ったこの言葉は、一庶民に過ぎない自分の矮小な正義感に触れました。
なにが正しいかをもし判別できても、大きな川の流れの中では、激流に揉まれて上も下も分からなくなるでしょう。自分を信じることも出来ず、かろうじて岩にしがみついて叫んでも誰にも届かない。
人が時代を時代が人を作る。絶対的な正義はそこにはなくて、相対的にこれが正しいという思想形成をしていくのかも知れません。
信念という言葉がありますが、これを強く持っていられる方は、おそらくは周りをも巻き込んで渦を作り、荒波をかき消して行けるのかも知れません。
海の水面。小さな波を大きな波にできる力があればいいなと思いました。
ひとりではできないことも、二人、三人と続けば変化は大きくなるからです。
正義の尺度を間違えれば、人は殺人をも肯定します。それは戦争です。今の時代はわかりにくくなっていますが戦争の火種があちこちにある気がします。
なんとかしたい、そう思うことがもしかしたら高慢なのかも知れません。
明日こそはと、なにかを変えようとしても、目の前の現実は少しばかりの変化で、なかなか苦しくなったりします。
筆者の想いは、遠い未来の穏やかで平穏な日々なのかも知れません。
そんなものは幻想だと笑われるでしょう。
でも、思い浮かべてしまうのです。
コオロギの粉末を食べて生きるとか、安全性のはっきりしないワクチンを打つとか、未来的ディストピアでいて暗いものを感じます。
パクチーを好き好んで食べるのは日本人だと聞きました。誰かの"いい"が小集団の中で最適化されるとき、みんなにとって"いい"に偽装されてしまうのでしょう。
10人のグループの中の1人になって、私はパクチーは食べないと残り9人の人に伝える勇気はあるだろうか。自分に問い、むずかしく感じてしまいました。それがこの国の空気感の圧力なのかも知れません。
コオロギだって食べたい人が食べるでいいはずだけど、そのうちたくさんの食品に混ざるのでしょう。
身体に害がなくて、本人の自由意志ならそれもそれかも知れません。
ワクチンや原発の問題は、本人が良くても誰かに害があるものだと思っています。それは本来なら選択肢から外されるべきものなのかもしれません。
時間を反対には戻せないから、落ち着いて確認して進めていくことも必要なのではないかと考えます。
時計の針は進むばかり。なら、せめて後悔のない進みであってほしいですね。
いつだって庶民は戦ってきたが、"正義"に翻弄されるのもまた庶民なのかもしれません。主体性には責任もともなう必要があると感じます。
眠れない夜の一筆書きでした。
斑鳩入鹿