されどマイルスなれどマイルス
何を聴こうかと選択に困ると、こういうときは何も聴かないのがいいのだが、それでも、というときは、結局マイルスをかけてしまう。コルトレーンもすばらしい。バップにはじまりジャズコンボが行き着いた先にコルトレーンがいる。コルトレーンのドラムとのデュエット、インターステラー・スペースだったかな(このアルバムでいちばんいいのはやっぱ鈴の音だとか)、ラシッド・アリとの共演がとても好きで、70年代当時ジャズ評論家の由井正一がけなしていたのをひとり憤慨した覚えがあるが、いいにしろ悪いにしろ、60年代の前衛ジャズは、こういう「ソロ」へと収斂して、結局消滅していくという傾向があったように感じる。セシル・テイラーもそうだし、サックスのソロ・アルバム(アンソニー・ブラクストンだったか)もあったな。とても流行ったキース・ジャレットのソロ・ピアノというのはそういうきわどいところをついていた。でもマイルスはこれとはまったく逆の方向(彷徨)にある。一時はロックだなんだと言われた、ポリリズムのアルバム群、エレキのアルバム群、マイルスは思弁的な前衛というよりも、一歩退いて前衛マイナスワンというところで、いつもクールで新しかったし、それがいまも新しい。コルトレーンを聴いていると(いまも思い出して、インターステラーを聴いているけれど)、もういいやと思ってしまうのに、マイルスは(もちろん気分によってはアガルタみたいなのはしんどいけど)それほどにはならない。そしてマイルスのいちばん大事なところは、アドリブのフレーズでもなく、リズムの多様性でもなく、そのつどのユニットの斬新さでもなく、あの音なのだ。枯れたようで花やかな、乾いていてどことなく湿りを帯びたトランペットの音、クールの時代からずっと変わらないのは、あの音なのだ。音色にこれほど関心を絶やさなかったジャズメンというのは、そんなに多くない。というかマイルスしか思い浮かばない。あとドン・チェリーにちょっとそういう傾向を見るけど、ひょっとするとこれはトランペットに特に際立つのかもしれないな。いずれにせよ、プゥーと一音聞けばマイルスだというあの音は、変幻極まりないマイルス音楽史のなかに恐竜の脊椎のように存在している。この音が聞きたいだけなのかもしれない。で、結局、いまインターステラーはやめて、ソー・ホワットを聴いているよ。
夕凪やひかりたわめて秋の声されどマイルスなれどマイルス
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