「かく」ことについて

こんなタイトルだとスティーブン・キングを意識してるみたいだ。なんてことを思っちゃった時点でもうスティーブン・キングを意識しちゃっている罠。スティーブン・キングの小説一冊も読んだことないし、『書くことについて』も随分前に何となく読んだくらいでぜんっぜん覚えてない。もうだめだ!


もう随分と小説を書いてない気がする。

どれくらい書いてないかといえば、実際数ヶ月も経っていない。電撃大賞に応募したのが四月。それからどこに出すでもない何かを書いたりしたけれど、期間としてそこまで長くはないはず。それにプロットに限ればいつもいつでもいつまででも、呼吸するように考えている。書きたいものはたくさんあって、呼吸と共に増えている。

それなら書いてるんじゃないのとも思うのだけど、わたしの中に書いている実感はない。プロット作業は「書く」というよりは「描(えが)く」という作業だと感じている。アイデアを文字に落とし込んで誰でも読めるものにしていくのが「書く」。アイデアを思い描いて、とりあえず自分には認識できるような形にしていくのがプロットの「描く」。そんな感じ。


じゃあ最近なにをしてるのかといえば、絵を描いている。一年前くらいからちゃんと始めて、上手い人に教わったり教本や講座動画を観たりしつつ、板タブにペンをガリガリこすりつけてはCtrl+zを押す日々を過ごしている。ハッキリ言ってすごく楽しい。

元は漫画を描く人になりたかった。けれど絵を描く力がからっきしで、模写をしても歪なものしか出てこない。漫画原作者なら…! みたいな発想にも向かなかったのでそのまま諦めていた。小説を書き始めたのは、文字なら書けるのでは…? という安直な考えからだったりする。本当に安直だ。

何度も言うけれど、絵を描くのは楽しい。もともと諦めた方向だったからというのもあるし、小説を書く中で視覚に訴えかける情報の力を思い知ったというのもある。今でも模写はできないけれど、キャラの顔が魅力的に描けたときや、人体という秩序に則った美しい体のラインが描けたときは最高に気持ちいい。だから、それをかたち作る線を出すためなら、何度でも何度でも描き直してしまう。昔のわたしならこの「何度でも」ができなかっただろうし、それができなかったからこそ絵が描けなかったんだと思う。

この「何度でも」を可能にしてくれたのは、小説だった。机にしがみついて……みたいに書くと必死こいてる感が出すぎる。とにかく机に向かってカタカタと文字を打ち続け、物語を完成させてきた経験が絵を描くことに活きている。逃げ道のようにして始まった小説が、めぐりめぐって絵につながった。文字を「書く」こと、絵を「描く」こと、どちらも「かく」で、結局のところつながっているらしい。


もう随分と小説を書いていない気がする。絵を描いて、プロットを描いての日々を楽しみつつも、心のどこかに焦っている自分を見かける。ずっと「書」いていたから、「描」くばかりの日々が続いているのはやっぱり違和感があるらしい。こればっかりはnoteを書くとかの代替っぽい行動でも埋められない。もはや原始的な欲求みたいになっていて、「書く」ことは「プロットを描く」とセットになり、わたしにとっての呼吸と同じような位置を占めている。創ることが当たり前になっている。

そんな感じだから、来るときが来たらどうせ書き出すに違いない。今も資料は読んでいるし、いつも通りに息を吸いながら新しいキャラクターのことを考えている。いいことがあっても悪いことがあっても創作のことを考えている。ちなみにこれは結構面倒なクセで、面白いマンガを読んでいても「これプロットに活かせるな…?」みたいなノイズが走る。

「やりたいこと」が呼吸とセットになっていると、そこそこ有利なんじゃないかと思う。人生いろいろあるけれど、いつ何時でも「かくこと」が襲ってくる。セットなので、まあ呼吸もしとくか、となる。この原始的な欲求にしがみついていれば、なんとか生きていけるんじゃないか。それほどギリギリに追い詰められたことがないからわからないけれど、わたしにとっての「かくこと」はそんな風かな、と思ったので、書いた。

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