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北海-宇和島東 1994年夏の甲子園1回戦

宇和島東(愛媛)を引き当てた————
今の時代なら、SNSでどう書かれていたでしょうか。

宇和島東は高校通算40本塁打の4番・橋本将(のちにロッテ・横浜)や2年生の宮出隆自(のちにヤクルト・楽天)を擁して堂々の優勝候補でした。
センバツでも優勝候補でしたが、準々決勝でこの大会で覚醒した智弁和歌山に4点リードを守れず大逆転負けを喫してベスト8に終わっています。

智弁和歌山の高嶋仁監督には、宇和島東ベンチが焦っているように見えたそうです。結果的に継投の乱れを突かれる形となってしまいました。
宇和島東の上甲正典監督にとっては、悔いの残る敗戦だったのでしょう。宿舎で物に当たり散らすなど大暴れし、危険を感じた関係者が選手たちを一時宿舎の外に避難させたという逸話が残っています。

対する北海は、昭和38(1963)年にセンバツ準優勝という輝かしい実績を残しましたが、昭和40年代からサッパリ甲子園で勝てなくなり、昭和50年に入ると甲子園に出場することすら激減していきました。そして昭和60(1985)年4月、外部から大西昌美氏を監督として招聘しましたが、OBからの風当たりも強かったようです。
しかし1988(昭和63)年センバツで西条農(広島)を破り、これが北海にとっては1964年夏以来24年ぶりの甲子園勝利。すぐに結果を出したことで、批判の声を封じ込めました。再び有力な選手が集まるようになり、1992年4月の新入生は「これまでの中で最強」と大西監督が見込んだ世代でした。

愛媛県民の目線から見れば、宇和島東は勝って当然の優勝候補、初戦で負けるとは1ミリも思っていなかったことでしょう。しかし実は北海道民の目線から見ると、北海も自信を持って送り出した代表校だったのです。もちろん高校野球雑誌でも、南北海道大会の優勝候補の筆頭的存在でした。

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