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ネガティブ・ケイパビリティを考えるヒント④ ~目に見えない力の存在~

今回は、遠藤周作の「創作日記」から。

ネガティブ・ケイパビリティの発見者、ジョン・キーツは、「ぼくが言うどの一言でも、ぼくの生まれつきの個性体から生じた意見として認めうるものではないということは、まさに事実なのだ」という言葉を残している。「目に見えない力」に頼るのは、あらゆる芸術家の共通点かもしれない。

われわれが生きるには二つしか道がないと思う。自力と他力

勇気ある人には、自力で自分のやりたいことを頑張ってやって、そして死ねば本望だという気持ちがある。若い人の場合、実際にそういう、自分が生きているんだという気持ちを持っている人は少なくない。ところが、そうではなくて、年をとるにつれて、自分が生きたんだというのではなくて、何か目に見えないものに生かされているという気持ちになってくる人もいるわけです。

私の場合で言えば、
 「おれがこの小説を書いているんだ」
という気持ちは、もちろん小説を書いているときにはある。しかし、小説家は多くを経験すると思うけれども、だれかが手をとって書かせてくれているという気持ちになる何ページかがある。

そのことについてはいろんな人が論じていて、たとえばそれは、目に見えないものが協力しているんだとか、あるいは意識が書かせているのではなく、無意識が書かせているのだとか、いろいろ言われている。 たしかに自分の意思で、意図どおりに書いているのではなくて、だれかが一緒に、私なら私の手を持って書かせてくれている箇所があって、それがそのページのクライマックスであったり、そのページの読みどころであったりするという経験は、本気で小説を書いているものにとっては、あるのです。

生きている場合も、自分の意思ですべて生きていると若いころはそういう気持ちでいるけれども、ある年齢を過ぎると、
 「いや、そうでもないぞ。何か、だれかが後ろから後押ししてくれている 
 んだ

と感じるような経験をすることがある。目に見えない力が後ろから押してくれて、本来、右に行こうと思っていたにもかかわらず、その力によって別の方向へ導かれたりという、自力ではなく他力を底に感ずる経験をしばしばやるようになると、自分が生きているんだけれども、自分を包んでいる、自分を生かしている、大きな目に見えない働きを感じるようになるわけです。

遠藤周作『『深い河』創作日記』からの抜粋


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小林範之
最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。