スピノザとティール、そして、もうひとつの近代
※こちらは、2年前に書いた『スピノザとティール、そして、ありえたかもしれない近代』の3つの記事を1つ分のボリュームにダイジェストし、かつ、より「今」の状況にフィットするよう加筆・追記したものです。
はじめに
友人に勧めてもらって、國分功一郎さんの『はじめてのスピノザ』を読んだとき、スピノザの哲学があまりに「ティール組織」と似ているということに驚きました。スピノザの言う「コナトゥス」や「変状する力」という独特の言い回しを、ティールの3つのブレイクスルーと言われる「セルフマネジメント(自主経営)」、「ホールネス(全体性)」、「エボリューショナリー・パーパス(存在目的)」に置き換えたとしても、そのまま意味が通ってしまいそうだと気付いたからです。
國分さんは、本の「はじめに」で、スピノザの世界観のことを「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」という表現で説明されています。その言葉は私にとって、私たちが近代から現在にかけて築き上げてきたこの世界とは別の世界、つまり、パラレルワールドの存在を感じさせてくれました。國分さんはさらに、「そのようにとらえる時、スピノザを読むことは、いま私たちが当たり前だと思っている物事や考え方が、決してあたりまえでないこと、別のあり方や考え方も充分にあることを知る大きなきっかけとなるはずです」という説明を加えられています。
産業革命に始まった近代は、2つの世界大戦、資本主義対共産主義、そして、宗教の縛りから解放された個人主義の発達などに集約されるといって過言ではありません。スピノザが生きた17世紀は、デカルトやニュートンが活躍した時代でした。彼らの要素還元的で直線的(リニア)なメソロジーが、近代の資本主義経済の基礎原理となりました。そして、その手法は、今も多くの企業で採用されている目標管理型の経営方式を生み出しました。現場工場における生産性の向上が大量生産を可能にし、それに見合うマーケットを創出することで、過剰消費を促していったのです。現代は、大量消費・大量廃棄が問題になっていますが、それらのルーツは近代にあるのです。
もし近代が、デカルトやニュートンのような要素還元的な科学に従わず、スピノザのような一元論的な世界観の中で進行していたら、現代の様子はまったく違っていたと想像ができます。
ここ数年、近代における産業革命以降培われてきた経済偏重の傾向に疲労を感じた人たちが中心になって、お金への依存や隷属状態から抜け出そうとする動きがあります。「ティール組織」が世界的に話題になったのもその大きな力に押されてなのかもしれません。ヒエラルキーという縦の管理に従属するだけでは未来が想像できなくなってきたから、というのは理由としてあると思います。デカルト的世界観とスピノザ的世界観とでは、「自由」の捉え方がまったく違うからです。そして、常識といった感覚で盲目的に続けられてきた「近代の仕組み」に代わる新たな枠組みを探さなくてはならないという、集合的な「願い」が世の中に生まれてきて、いま、それが広がりつつあるような気がしています。
汎神論
「神」という一つの存在に外部も内部もないというのは、「ワンネス」の考え方です。ティールでいう「ホールネス」という概念は、アーサー・ケストラーが使った「ホロン」構造と基本的には同じです。
それとは対照的に、1つではない、つまり、分節に分かれているという意味を考えていきましょう。何もない地平に1つの線を引くことによって、元あったものは、例えば、AとBというような2つのものに分かれます。それぞれに名前が付き、意味ができます。意味づけからイデオロギーが発生したら、そこには対立が生じます。分節化するということは、意味ごとに分化が生じ、AとBは別物といった差がクローズアップされることを意味します。スピノザが示すのは、この分化の反対の方向性です。つまり、すべての「力」やエネルギーを内包した混沌のことをスピノザは「神」と呼んでいるのです。
サイバネティクスのセカンド・オーダーと言われるオートポイエーシスでは、自律的な秩序生成に至る発生のプロセスはシステムの閉じの中でしか作動しないといいます。人間は一見、外部と情報の交換をしたり、大気に対して呼吸という手段を使って空気の出し入れをしたりするオープン・システムに見えます。ただ、地球サイズに視点を置き換えると、人間の呼吸は、単なる大気の循環のごく一部に過ぎません。すべては1つの閉じた系の中で完結できてしまっています。人間は閉じた系の中で生きていることが分かります。スピノザのいう「神」も自己完結している系であり、その性格は、「自然」に近いものです。なぜなら、「自然」も循環できる枠組みで閉じているからです。『ティール組織』の著者、フレデリック・ラルーは、「セルフマネジメント」を説明する際、自然界における恒常性をメタファーとして、自己修復システム(Self-correction)を紹介しています。メンバーがパーパスの声を聞き、そして、その声に従うことによって、テンションといった組織が抱える違和感のようなものや、その他の様々な課題が、方向感をもって動き出し始めるというものです。
コナトゥス
この「コナトゥス」という言葉を、「セルフマネジメント」に置き換えたら、そのまま文脈が成り立ちます。
・ 「セルフマネジメント」とは、ある傾向を持った力で、個体を今ある状態に維持しようとして働く力のことである。
・ 「セルフマネジメント」は「力」でもあり「形」でもある。
「『セルフマネジメント』とは、ある傾向を持った力で、個体を今ある状態に維持しようとして働く力のことである」というのは、上で述べた「自己修復システム」と共通した作用です。「セルフマネジメント」はパーパスという座標に対して、常にフィードバックを行い、それによって、一貫性を保持します。
「『セルフマネジメント』は『力』でもあり『形』でもある」については、詳しく触れておく必要があります。
ティール組織を理解する際に、多くの人が誤解していることがあります。その中でも最も多いのは、ティール組織はフラットな組織だと思われていることです。確かに、ティール組織の目指すのは、従来のようなピラミッド構造による力の偏在ではありません。組織の一部に権力が集中し、多くの人がその力に支配されている状態では、「セルフマネジメント」は機能しません。一方で、「セルフマネジメント」が機能する状態とは、メンバーすべてが組織運営に一票を投じることのできる「力」を持っていることです。例えば、何かトラブルが発生した時のことを考えてみましょう。「力」が固定化した組織の場合、何かトラブルが起こると、マネージャーが調整のために、現場に勇み来て、介入を行います。そして、場を治めると何ごともなかったかのように本部に戻っていきます。解決プロセスにおける裁量権はマネージャーが持つ代表的な「力」の一つです。これに対し、セルフマネジメント組織は、予め紛争解決のためのルールや、ビュートゾルフが採用している「フレームワーク」というルール未満の何らかの「枠組み」を使って解決を図ろうとします。「アドバイスプロセス」という合議的な意思決定の場が設定されることもあります。つまり、極力、一部の人の「力」による決定を避け、システムの持つ回復を図ろうとする力を使って解決を図ろうとします。組織の恒常性を維持するための免疫システムに働く「力」と捉えることができます。「セルフマネジメント」はそれを維持しようとする力だけでなく、ルールやフレームワークといった「形」、つまり構造を持っているということです。
ティールはルールや決まり、制度がないと思われていることも大きな誤解の一つです。確かに、ルールや決まりを明文化するかどうかの決まりはありません。しかし、「セルフマネジメント」は、一定の枠組みによって機能するのです。
変状する力
「変状する力」とは、まさに、「エボリューショナリー・パーパス」を指していると思いました。
「『「本質」とは『力』である』と言っている「力」とは「本質」なのであるから、その「本質」を「エボリューショナリー・パーパス」に置き換えて、読んでみます。
・ 「エボリューショナリー・パーパス」は力であるから、刺激に応じて様々に変化する。その「決定」された本質は、個人に「あることをなす」よう働きかける。この欲望が「エボリューショナリー・パーパス」そのもの。「エボリューショナリー・パーパス」とは「力」である。
「エボリューショナリー・パーパス」はまさしく、進化するパーパスであるので、「刺激に応じて様々に変化」します。そして、そのパーパスは、組織のメンバーに「『あることをなす』よう働きかけ」ます。組織のメンバーは常にそれに向き合い、それに問いかけることで、自らの進む道を探し当てます。その様は、パーパスが働きかけるという表現がぴったりです。
ティールでは、「エボリューショナリー・パーパス」が欲望の主体であるという言い方はしません。ただ、志向性がないと道を指し示すことも照らすこともできないと思います。常時は志向性を持っていなくても、問うた時にだけ志向性を示す、欲望を表すといったら量子力学的な解釈になります。ここは無理に決めつけることはないと思います。しかし、その次の、「『エボリューショナリー・パーパス』とは『力』である」というのは、間違いようのない真実です。
・ 異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることがある。また、同一の人間が同一の対象から、異なった時に、異なった仕方で刺激されることがある。
というのは、まさに、「エボリューショナリー・パーパス」が組織の動的な関係性と共鳴し合っていることに由来します。組織のメンバーの誰かが辞めたり、誰かが入ってきたりすることで、関係性という立体的なネットワークに変化が生じます。となると、当然、「エボリューショナリー・パーパス」にも変化が生じます。組織もパーパスも命を持っていて、ともに生きているからです。企業理念のような、固定的で、言ってみればそもそも命を有していないものとは本質的に異なります。もし動的なビジョンを掲げたいと思ったら、日々メンバーはそれについて話さなければなりません。そして、日々更新していかなければなりません。ただし、それは本質的ではあっても非効率です。ですので、ティール組織は、ビジョンやミッションの明文化には、ニュートラルか、どちらかというと否定的なスタンスを取ります。
・ 刺激による変化のことを「変状」と呼ぶ。つまり、あるものが、何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びることである。
「エボリューショナリー・パーパス」とメンバー間の関係性が感応し合うことで、互いに「変状」し合います。「一定の形態や性質を帯びる」というのは、その瞬間瞬間に「変状」していく様をいっています。
・ 「力を持つ」とは、喜びをもたらす組み合わせを見つけることである。
「力を持つ」とは、power overという無力な状態から、power withという状態にシフトすることを指します。「セルフマネジメント」において具現化される際には「権力」と訳されるかもしれませんが、本質的には「エボリューショナリー・パーパス」から得た「力」のことです。つまり、一人一人が組織を変えていけるんだ、という力強い、まさに「力」です。
おわりに
ある調査会社のレポートによると、大企業の管理職は、業務時間の約20%を数字合わせに費やしているということです。月間目標に対して、その予測値を経営者に提出します。そして、結果がその予測値と乖離する恐れがでたら、様々なストーリーを構築しなければなりません。これが出来なければマネージャー失格です。平均が20%ですので、人によれば数字合わせに業務時間の半分以上を割いているでしょう。あるいは、数字合わせがマネージャーの最も大事な仕事(!)と思っているマネージャーも少なくありません(実際、私の知っているだけでもそんな人は大勢います)。デイヴィッド・グレーバーは高給取りのする全く生産性のない仕事をブルシットジョブ、クソどうでもいい仕事と一刀両断にしました。
『はじめてのスピノザ』の著者、國分功一郎さんは、スピノザの哲学はアプリではなく、OSだと言っています。どういうことかというと、スピノザの世界に浸ろうと思えば、デカルト以降の近代~現代を、一度大きなカッコに入れないといけないということです。私たちが当たり前と思っている評価制度や人事制度も、例えば中世の人や、未来の人や、宇宙人でもいいですが、まったく違う世界の人から見たらどれだけ奇異なことをしているのか、という視点は持つ必要があるということです。
最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。