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「ありのままをさらけ出せばいい」というものではない

Googleに「心理的安全性 ホールネス」と入力したら、AIが、「心理的安全性とホールネスは、組織において従業員が安心して互いを認め合い、対等な立場にある状態を指し、密接な関係があります」と回答してくれました。そして、その違いとして、それぞれを以下のように定義してくれました。

<定義>
・心理的安全性
チームの他のメンバーが自分の発言を拒絶したり、罰したりしないと確信できる状態
・ホールネス
従業員全員が対等な立場であり、安心して互いを認め合える状態

実際には、「心理的安全性」は組織開発全般に使われ、「ホールネス(全体性)」はティール組織の文脈で、それを説明する際に使われると思います。しかし、ティール組織を説明する際にといっても、「ホールネス(全体性)」のことをわざわざ、「心理的安全性」とほとんど同じだと説明して、それで終わっているものが大半だと思います。
 
Googleが示してくれたように、「従業員全員が対等な立場であり、安心して互いを認め合える状態」と説明したとしても、「全体性」という意味で、まったく、言い得ているとは思えません。
 
そこで、何が「全体」なのか、何が「心理的安全性」とは違うのか、それについて解説する必要があると思いました。

「全体性」とは

フレデリック・ラルーは、動画シリーズの中において、「全体性」とは、「自分らしく、ありのままでいられる」と説明した後、それを超えて、「周りとのかかわりの中で、自分自身の新しい一面を発揮することにつながる」ことだと説明しています。

 さらに、「全体性とは何か」を明確に定義する必要があるとした上で、個人において全体性の意味を明確にすることがとても大事だと言っています。つまり、「ホールネス(全体性)」とは、個人の中で、自分の言葉によって、定義されるものなのです。
 
例えば、サイコシンセシスという統合心理学には、「花開く自己」という言葉があります。誰にでもある創造性、潜在的可能性を開花させる全人的な成長のことを指して、このように呼びます。
 
大河ドラマ『光る君へ』では、道長の娘である彰子を演じる見上愛さんが、見事に「花開く」さまを演じられました。一条天皇に嫁つぎ、中宮となった彰子は、登場したころは、自分自身を表現できない、とても奥ゆかしいキャラクターで描かれていました。しかし、吉高由里子さん演じるまひろ(紫式部)に信頼を見出した彰子は、自分はピンクの着物ばかりを着せられているけれど、本当は空のような青い色が好きだと告白しました。曲水の宴の折は、父道長のペルソナを脱いだ顔に初めて接して、大きな安堵感を得るに至りました。そして、一条天皇に自分の想いを直接ぶつけたことによって、全人格的方位に、美しく、開いていったのです。
 
『ティール組織』の原題は、『Reinventing Organizations』といって、組織の再発見を意味します。「全体性」に対しても、同じく、「関係性の中で本来の自分を再発見していくこと」と定義することもできそうです。
 
「定義することもできそうです」とぼやかしたのには、意味があり、これは私の定義だからです。繰り返しになりますが、「全体性」とは、それぞれの人がそれぞれに定義すべきものなのです。
 
全体と満たす、という意味では、例えば、「弱さ」が「強さ」に転化して、全体を満たしていく様や、「自己」が「他者」によって満たされて、広がっていく様などが想像できます。いずれにしても、今まで、見過ごされてきたもの、隠そうとしてきたものに光が当てられ、全体に対して広がっていく、満たしていく点は共通していそうです。


「心理的安全性」と「ホールネス(全体性)」の違い

よく、「心理的安全性」を説明する際に、「ありのままをさらけ出せる」環境などという表現が使われます。そう聞くと、必ずと言ってよいほど、「では、ありのままの自分をさらけ出すことが推奨されるなら、会議の席などで暴言を吐いても良いのか。他人を攻撃しても良いのか」という議論に発展します。自分のエゴをおもいっきりさらけ出すことが「心理的安全性」なのかという問題です。そして、それに接した他の人も、同じく、自己主張で応酬することによって、「何でも言える」場が作られていくのでしょうか?それは、本当に、安心安全な場なのでしょうか?
 
しかし、考えてもみてください。エゴをさらして、何が開かれるというのでしょう?そして、何が満たされるというのでしょう?おそらく、これが答えです。むしろ、利他を進めた方が、全体が安心で満たされるのではないでしょうか?
 
場に対して、開かれること、広がっていくことによって全体は満たされます。それが、「全体性」です。心理的安全という柵を超えて、全体に広がり、満たしていくものの存在を想像してみてください。それは決して、エゴでもなければ、暴力でもないはずです。


最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。