死との距離感
人との距離感がわからないのと同じで、死との距離感がわからないことが怖い。明日死ぬのはとても怖い。60年後70年後死ぬのはとてもとても怖い。
私たちは死までの距離を、どこまで続くかわからないトンネルを、ずっとずっと1人きりで走り続けている。どこまでも予測不可能なその距離感を手掴みで掴もうなどとして、気持ちよくなっては結局もっと気持ち悪くなると最初から知っていながら酒や薬を大量使用する人もいる。そうした手段で死と接近できた気がしても、やはりトンネルは暗過ぎて何も見通せない。私たちは一生出られないトンネルの中で、気持ち悪い旋律の音楽が急に暴音で鳴り響いては吐瀉したり、見たことのない色の化け物が突如顔前に現れては気絶したりする。
それでも私たちは、何事もなかったんだとなにかに諭されて、何事なかったような顔をして、何事もなかったんだと思い込んでは走り続ける。目の前に吊り下げられた希望と呼ばれるエサに夢を見て。エサは恋とか愛とか奇跡とか名付けられた幻で、味は七変化する。でもどれも、口に入れた瞬間の風味は極上で、後味は涙が出るほど酷く陳腐だ。それでも私たちはまた、"何事もなかったんだ"と何者かに諭されて、目の前のエサを理由に途方なく走り続ける。夢は目の前には無くて、這いつくばって暴れ回って掴み取るものだ。
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