金印について、その8~本当はここにあったのかも~
志賀島から発見された金印が本物であるのならば、九州北部に漢王朝と交流のあった国があったのは確実と言えます。
太古、北部九州に巨大な王朝があったという「九州王朝説」というのを古田武彦という方が唱えています。
詳細は省きますが、その中で志賀海神社に伝わる神楽歌の前半。
君が代は、千代に八千代に 細石のいわおをなりて こけのむすまで
このキーワードが北部九州に散りばめられているというのは、面白いなと思いました。
博多区には千代町という名前があります(JR吉塚駅付近)。
糸島には細石(さざれいし)神社という神社があります。
井原槍溝遺跡の井原は土地の古老達は「いわお」とよぶ(これは少し無理があるかなぁ)
糸島市若宮神社に祀られている苔牟須売神(コケムスヒメ)。
こんな具合に、キーワードが北部九州の海岸沿い(西の糸島付近が多い)にあるとのことです。
さて、この中に出て来る細石神社ですが、糸島市三雲にありまして、三雲小路遺跡のすぐ近くです。
実はこの神社には、ご神体として金印が置かれていたという言い伝えが残っています。
そして、この言い伝えを補足するような文章もあります。
平成八年十月三一日に能古博物館が発行した能古便りに、当時の理事長庄野寿人さんの記述でこうあります。
昭和35年ごろ、福岡市史編纂室勤務の小野有郁介から一枚の紙を見せられた。その紙の中央には金印が押されており、紙の質から見て近代のものではなかった。そして、小野さんが言うには「これは亀井南冥が天明四年に、金印を糸島の神社から持ち出したときに、此の紙面を預けて形代にしたものだ」
能古博物館とは、博多湾に浮かぶ能古島の中にある博物館で、亀井家の資料が保管、展示されている場所です。
当然ですが、この形代である紙面は現存していません。
もし、所在が確認されれば、金印論争にも決着が着くのですが。
この記述の通り、亀井南冥が細石神社に奉納されていた金印を持ち出したのだとしたら。
なぜ、南冥は金印の在処を知っていたのか?
先に書きましたが亀井家の祖先は怡土の原田氏の家臣であり、南冥の父親、聴因は三雲村の出身です。
後日書きますが、南冥の孫娘、亀井小キンは親戚(又従兄弟だったかな?)である怡土三雲村の三苫源吾と結婚してます。
このことから、三雲村には南冥の親戚が居たことがわかります。
先に書いた柳園古器略考に描かれた遺物が、天明4年より前に発見されていたのなら、その情報は南冥も知らされていたでしょう。
しかし、だとしたら、なぜ志賀島から発見されたことにしたのでしょう?
果たして、亀井南冥は金印を保護した功労者なのか?
自らの権威を高めるために金印を利用した詐欺師なのか?
長い間、金印のミステリーにお付き合いいただき、ありがとうございます。
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次回は、亀井南冥がその後、どうなったのかを書いていきたいと思います。