売春王国と呼ばれた福岡
明治時代から遊郭で働く娼妓は公娼であり、税金がかけられていました。
県議会で税金を上げる提案がされ、可決されされることもあったそうです。(議員が全員男だった時代です)
しかも、その税収入は貞淑を教える女学校の教育費に当てられていたりしたとか。
(世界中で、娼妓から税金(賦金)をとる国は当時、日本だけだったそうです)
日清、日露戦争を経て貸座敷業者と呼ばれた妓楼の経営者は(楼主)は多額の税金を納める高額納税者となります。
この頃、福岡は売春王国と呼ばれていたそうです。
多くの炭鉱を抱え、中国や朝鮮半島とも近い福岡は交通と経済の要所でした。
軍隊の駐留も多く、多額の金が遊郭に落ちました。支払う税金が多くなっていくと、貸座敷業者の発言権が増してきます。
豊富な資金を元手として、公職に就く楼主もでてきます。
大吉楼の楼主であった池見辰次郎は新柳町遊郭取締りであり、県会議員でもありました。
貸座敷以外の事業にも手を出している実業家でもあり、その肩書きは名刺一枚に入りきれないとまで言われていたそうです。
彼は、全国貸座敷業者大会で、全国総合会長に選任されます。
そして、大正14年には福岡で貸座敷業者の全国大会を開催します。この大会には、全国から業者が集まるので宣伝になるからと、福岡市が500円を寄付しました。
この寄付は社会問題となりました。
(今で言えば、全国のソープが集まる大会に市が税金を使うみたいなものです)
当時、救世軍と呼ばれるキリスト教系の団体が廃娼運動の街頭演説や講演会を行い公娼制度の廃止と、娼妓の解放を訴えていましたから、こういった団体から猛反対され、福岡市は寄付を取り下げています。
当時はテレビもありませんから、こうした廃娼運動の宣伝はもっぱら演説会でした。
そうした演説会に柳町の若者が乗り込んで、会場で暴れて中止に追い込んだり、廃娼運動と遊郭側は激しいバトルを繰り広げていたそうです。