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犬鳴山別館事件

福岡で有名な心霊スポットに犬鳴トンネルというのがある。

最近、犬鳴村というホラー映画の舞台にもなった場所で、地元では誰もが知っている心霊スポットだ。

旧道の犬鳴トンネルは現在では立ち入り禁止になっている。

学生の頃、一度行ったことがあるが、当時流行っていたエピソードはこうだった。

「旧道を車で走っていると、後ろから匍匐前進のお婆さんが追いかけてくる」

そんなのむしろ見てみたいわと、学生特有のノリで夜中に犬鳴トンネルまで車を走らせた。

自分は霊感なんて皆無だし、そういうものを全く信じていなかった。

しかし、今なら言える。

あそこは、本当にヤバいと。

そもそも、犬鳴山というのは犬も鳴き叫ぶほど深淵の場所という意味で名付けられたそうだ。

幕末、犬鳴山に藩主の別邸が建築されていた。その計画を推進したのが筑前勤王党の加藤司書だ。

当時、下関戦争や薩英戦争など、藩と諸外国の戦争が起きていた。

福岡城は海からとても近いため(現在はかなり埋め立てが進んでいるのでそうでもないが)
外国の船が攻めてきたら、砲弾が届く距離だった。

そこで、もし外国との戦になった場合、藩主を安全な内陸部へ避難させようとした。

その為に建築されたのが犬鳴山別館だ。

ところが、加藤司書達、筑前勤王党のことをよく思わない佐幕派の面々は、藩主である黒田長溥にこう告げ口をした。

「加藤司書らは、犬鳴山別館に藩主であるあなたを幽閉して、代わりに息子の長知様を藩主に担ぎだして実権を握るつもりなのです」

これに長溥は激怒した。そして、加藤司書ら筑前勤王党、関わりのあった人物を全て捕らえた。

加藤司書は切腹、月形洗蔵は斬首。野村望東尼も姫島に流罪される。

これが、福岡藩での尊皇派弾圧、乙丑の獄の顛末だ。

この事件で福岡は多くの人材を失い、維新の波に乗り遅れることになる。

名君とよばれる黒田長溥だが、この事件に関してのみ、判断が性急であったと言える。

もしかしたら、犬鳴山に幽閉されるのが嫌だったのかもしれない。

学生の頃、犬鳴トンネル(旧道)を車で走り抜けた後、フロントガラスに白い手形のようなものが付いていたことは、一生忘れないだろう。


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