娼妓の給与形態(年季制度)
明治33年に改正された娼妓規制法による年季制度では、着飾って待機していれば、お茶を挽いても(客がつかなくても)借金額を年季日数で割った額が毎日借金から引かれました。
5年の期限で1000円を借りると、1826日(5年)で割った54銭8厘が毎日借金から引かれる計算になります。
ただし、病気や外出で稼ぎのない日は減額されません。
性病で入院した場合は、入院日数の半分は稼いだものとして認められたそうです。
そして一ヶ月間の売り上げの8%が月末に現金で渡され、小遣いとなりました。
最初の一ヶ月の働きが、外出一日、入院4日、売り上げ50円とすれば、31日から3日引いて(入院4日の半分と外出1日)28日を54銭8厘かけた15円34銭4厘の借金が減って、月末の借金は984円65銭6厘となり、小遣いが4円もらえます。
こうすると、1年4ヶ月で借金分は取り戻せることになります。
ただし期限は5年ですので、それまでは働かなくてはいけません。
その後の娼妓の働き分は楼主の儲けとなりました。
年季前に中途で廃業すると、残っている借金のほかに違約金(借金の1割)未済金額利子(年1割)を払わなければなりませんでした。
楼主と娼妓の賃借を明確にするために、娼妓日計簿というものを二冊作成し、営業主と娼妓がそれぞれ所持しました。
60枚綴りで、表紙には楼名と妓名(源氏名)そして本名が書かれ、最初の一枚目に前借金額、稼業期間、一日返済額、紹介手数料金を記入して、警察の証印をもらいます。
二枚目からは日ごとに、玉代、別途借用金及び使途明細を記入し、月末には残額が書き込まれました。
こう書くと、しっかり金銭管理もされているように思えます。
それも当然で、この時代は公娼制度ですから、娼妓は地方公務員のような立場でした。
ですが、廓に売られるような女性は教育を受けていない者がほとんどです。
計算もできない、数字もわからない。
ですから、楼主側が計算をごまかしても、気がつかない女性も大勢いたのです。
いつの時代も、数字に弱い人は搾取されるのです。