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日本占領期の資料〜プランゲ文庫~続き

プランゲ教授が佐世保でアメリカに帰る船に乗り込んだところ、ちょうど台風がきた。

しかたなく台風が過ぎ去るのを待っていると、旧知の中佐が乗船してきた。

中佐は彼が仕事を断ったことと聞くと

「なんてことだ! 君は一生に一度しか得られない、歴史が作られる過程を内側から見る機会を失うことになるんだぞ」

と言った。

この説得に心を動かされたプランゲ教授は考えを改め、GHQの参謀第2部で戦史編纂の仕事につくことになる。

その仕事場で、彼は様々な日本の元陸軍・海軍の人達に出会った。

その中には日本海軍大佐の淵田美津雄もいた。

淵田大佐はかつて真珠湾攻撃の攻撃隊隊長として「トラトラトラ(我奇襲に成功したり)」の電報を打った人物だ。

淵田大佐は戦後、改宗してキリスト教の伝道師となり、アメリカで布教活動を続けた。

真珠湾攻撃を指揮した人間が、アメリカで布教活動をするというのは、どれだけ大変なことかは想像もつかない。

淵田大佐の息子さんは白人女性と結婚し、アメリカの市民権を得、娘さんはアメリカ海兵隊の軍曹と結婚したという。

 
そんなある日、誰かが占領軍は収集した資料を、破棄しようとしているのではと言い出した。

この資料というのが、戦後に出された出版物のほぼ全てで、その総量は20トンほどにもなった。

プランゲ教授はこの歴史的価値のある資料を保存しようと考えた。しかし、これらの資料を日本から運び出すのは大変なことだった。

軍の資料なので正式な理由と手続きも必要で、輸送するにしても資材の総量を、きっちりと数字として提出しなければならなかった。

もちろん、その資料の受け入れ先も決めなければならない。

そこで、メリーランド大学のバード学長に手紙を書いた。

これだけの量の資料を適切に保管する場所を確保するだけでも大変だが、学長は彼の申し出を受け入れた。

そして、GHQのコネクションを頼り、資料を大学で保存することに成功した。

その総量は1945年から1949年までに発行された、ほぼ全ての印刷物。図書・パンフレット71,000点(検閲処分を受け発行されなかったゲラ、原稿1,400点と検閲を受けた図書1,500点の断片を含む)雑誌 13,800点、新聞 18,000点、報道写真 10,000枚、地図 640枚、ポスター 90枚、集会配布物 140点という膨大な量だ。

(数字はプランゲ文庫公式ホームページより)

これだけの膨大な量の資料を整理し、箱につめ、発送するのに彼は2年の歳月をかけた。

こうしてメリーランド大学に送られたこれらの資料はプランゲ文庫と命名され、1980年代からはマイクロフィルム化が進み、今では多くの資料を国立国会図書館で見ることができる。

この資料の中には、民間検閲支局(CCD)に関する極秘資料も含まれている。

このプランゲ文庫がなければ、終戦後すぐの日本人の思想の移り変わりを客観的に見ることはできなかったと思う。

その時代を生きる人が、同時代の資料の価値に気づき、残そうと考えることは、中々できないことだ。

彼のスピーチは、プランゲ文庫の公式ホームページで読むことができる。

先述のエピソードが、もっと詳細に書かれていますので、興味のある方は読んでみてください。

http://library.nichibun.ac.jp/sp1/ja/guide/specialcollection_use/prange.html


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ijo katuki
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