偽物に触れて、本物に恋い焦がれる。
本物でなければ駄目だと思っていませんか?
『本物』は価値が高く、『偽物』は価値が低い。
当然です。
偽物より本物の方が良いのは確かにその通りです。
しかし、限られた生涯の中で『本物』を見たり所有したり体験したりできる機会は、どうしたってたかが知れています。
本物に触れることも大事ですが、偽物に触れて本物を想像することの方がもっと大事です。
音楽について言えば、生の演奏会やライブに行くのは本物に触れることで、YouTubeやCD、レコードなどで聴くことは偽物ということになります。
じゃあ、偽物の音楽を聴いて感動して涙を流すことに価値はないのでしょうか?そんなことないはずです。
本物に恋い焦がれ、偽物で我慢して、あらん限りの想像力を掻き立てて接した音楽や芸術などは、ものすごく感動が強いはずです。
旅行だってそうです。全ての行きたい場所に旅行することは、時間的、金銭的、体力的に難しいです。
実際に行ってみたら、思ったほど大したことなかったり、疲れただけだったというのはよくある話です(それも含めて旅行の醍醐味ではあるのですが)。
写真を見たり、旅行雑誌を眺めたり、旅行に行った人の話を聞いたりして、想像力を働かせることも、それはそれで素敵な体験の一つと言っていいと思います。
読書もそうです。歴史上の偉人と直接対話することは物理的に不可能ですが、読書を通じて魂の対話を行うことは可能です。
読書を情報収集の一種として捉えたり、知識を得るための道具とみなしたり、ひどい場合は暇つぶしとしか考えていない人がいます。
こういう人は「読書より経験の方が大事」などと言ったりしますが、読書を通じて想像することの大切さを何も分かっていません。
読書というのは、自分がいかにちっぽけでアホだったかということに気づくためにするんです。
先人が如何にして生きて、如何にして死んだかを知り、矮小な自分をほんのちょっとでもマシにするために読書するんです。
だから古典と呼ばれる良書を読まなければいけないんです。
小説や文学は虚構でありただの娯楽という認識は間違っています。
もちろん本当に娯楽だけを目的としたエンタメ小説も世の中には大量にありますが、それらと歴史的に評価の定まった文学作品は明確に区別しなければいけません。
文学に限らず全ての芸術は、人生を写した比喩なんです。
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本物は本物で素晴らしい。でも偽物だっていいじゃないですか。
何でもかんでも本物じゃなきゃ駄目という本物志向は、選択肢を極端に狭くしてしまいます。物質的には豊かでも、心が貧しくて窮屈です。
偽物でも十分満足という余裕があった方が、ゆとりのある人生と言えるのではないでしょうか。
繰り返しになりますが大事なのは想像力です。
偽物を通じて全身全霊で想像力を働かせることの方が、時に本物に触れることよりも何倍も強烈な感動を得ることがあるということです。