イーズカの教育(学び)の方法論
イーズカの方法論のポイントは、「とにかく量をこなす」コトである。
これは大学受験の時に身についたのだが、後になってみれば最も効果的なモノだった。
イーズカは親をダマして、1年間の浪人生活を決め込んだ。父は激怒しており、「絶対に二浪はさせない、こんど落ちたら地元の茶業試験場に入らせる」と宣言していた。
コチラは平気な顔をしていたが、内心は不安である。来春に受かる保証などどこにも無い。
親元を離れて最初の独り暮らしであり、不安な事ばかりである。自由ではあったが、自由を満喫するとトンデモナイ牢獄暮らしが待っている。
不眠症になりかけた。困ったなあ、と思ったが農民だったので結論はひとつであった。
「カラダを疲れさせるしかない」そうなれば、否応なしに寝てしまう。
予備校の授業には通っていたが、そんな程度では疲れない。それで、地元の書店で立ち読みすることにした。当時は私鉄沿線のどんな小さな駅でも、必ず書店があった。
15時頃には予備校から帰って来るので、毎日3時間の立ち読みを自らに課した。
たまには文学書のコーナーにも行ったが、基本は受験参考書と問題集のコーナーである。参考書はオモシロイものを選び出し、問題集は片っ端から解いていった。
問題集も最初は「自分のアタマで解ける」ことを目指していたが、面倒なので方針を変えた。この手の問題は、この種の答えに結び付きやすいことを調べた。マーケティング・リサーチの世界である。
現国など、まず設問から読むようになった。それから本文を読むと、答えはすべて書いてある。
古典も漢文も、この物語が出てくればこの文法が問われる。この漢詩ならば、時代と作者が問われる、とパターン化されているのが分かった。
所詮は私立文系なので、英語と国語と社会(イーズカは世界史)の3教科しかない。
英語は高校の教師にもらった『英文をいかに読むか』という本を書き込みで真っ赤にしていた。
例文として出ているのは、バーナード・ショウ、バートランド・ラッセル、サマーセット・モーム、ジョージ・オーウェルなどの、高等な文明批評文ばかりであった。
もともと長文読解だけは得意で、論理性の追求は大好きである。
立ち読みなので、時々はハタキで叩かれた。しかし、勉強する学生や浪人生に対する敬意というようなモノがあり、大事に扱われていた。
一日3時間の立ち読みは疲れる。下宿に戻り夕食を食べると寝てしまう。家での勉強など必要ない。予備校以外に3時間はやっているのだ。
3か月もすると、大体の要領は掴める。半年後には完璧に読破した。もう知らない問題など無い。
年明けの1月には悟りの境地に入った。これだけ調べ上げて、落ちる訳が無い。
結果、希望校にはすべて合格した。
高校生の頃から唯物論弁証法にハマっていたので、「量が質を変換する」という「質量変換の法則」が身に染みて分かった。
あれこれ効率的な方法論に悩むよりも、「まず、やってみる」ことであり、それも「大量にやってみる」ことが重要である。
この受験勉強時の方法論が秀逸で効果絶大だったので、今でもその方法論を利用している。
イーズカが書く企画書の背後には、無駄に終わった資料や著作が山のように転がっている。その時の企画書には反映されなくとも、イーズカの企画提案水準を上げてくれる。
大学での教え子や若い連中を見ていると、とにかく「失敗を恐れ過ぎ」て、効率的な方法ばかり追い求めている。迷っているだけで何もしない奴が多すぎる。
イーズカにしてみたら、あ~だこ~だ言う前に「とにかく、やってみろ」と思うのだが、それをしない。
失敗を恐れる人間は、「失敗の価値」すら知らない。イーズカは「失敗こそが、真理への最短コース」だと思っている。
イーズカが今、「危機管理セミナー・講師」をやっていることが、それを雄弁に物語っている。失敗をしたことが無い奴から、危機管理の話など聞きたくもない。
言外に、行間に、語るべきことが溢れていないと、その人間の言葉には説得力がない。
イーズカの「教育方法論」は単純明快である。
「つべこべ言う前に、とにかく読め、すべてを読破してしまえ」。この一語に尽きる。