「今日、授業やりたくないな」と思ったあなたに 第2回 どんな教師で「あるべきか」ではなく、どんな教師で「ありたいか」に正直になる
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戦争の緊張状態の中、レバノンへ!
僕がレバノンに到着したのは、2023年10月末。つい2週間前にハマスがイスラエルにテロ攻撃を仕掛け、世界中に大きな緊張が走り始めた頃です。10月はパキスタンの学校で授業を行っていましたが、パキスタン人から「レバノンに行くのはやめておけ。予定を変更できないのか?」と説得され、次の行き先を知る日本の友人からも反対をされました。
ベイルートに到着して、安心したのも束の間、リキシャに乗ったら運転手が感情的になり、大声で何かを訴え始めました。よく聞くと、彼はパキスタン人で、最近始まった戦争により親友を失ったというのです。彼は親友の写真を僕に見せながら、大粒の涙を流し、どこに怒りをぶつけていいかわからずいました。戦争が始まった危機感と死者が出ていることへの怒りの感情を、世界中の人が持っていましたが、イスラエルの隣国レバノンではそれを強く感じました。出会う人多くに「あなたはイスラエル側に立つのか?それともパレスチナ側に立つか?」という質問をされ、回答に困ることもありました。
難民の子どもたち奪われているものは?
そんな状況の中、僕が訪問したのはベッカー高原地域。ここはシリアとの国境が近く、シリア人が多く住んでいます。彼らは、シリアの内戦により家が破壊されたため、安全な場所を求めレバノンに逃げてきた難民です。多くは不法移民で、UNICEFなどの支援団体から支給されたテントや支援物資によりレバノンでの暮らしを始め、新たな地で仕事を見つける人もいれば、仕事が見つからず親戚同士で支え合い、なんとか毎日を生きている人もいます。
シリア難民の子どもはどんな生活を送っているのでしょうか。避難先の公立学校へ通う子もいますが、日々の生計を立てるため親の仕事を手伝う子も少なくありません。声変わりしていない少年が車を運転し、朝4時から野菜を売っている姿を見かけました。一般的に、子どもにとって「学び」とは、将来の仕事を得る手段であると同時に、日常生活では得られない知的好奇心を得られる楽しみでもあります。しかし、環境や社会状況によって、シリア難民の子どもからは将来の夢を叶える手段や知的な楽しみが奪われていたのです。
レバノンで奮闘する日本人
そんな状況を変えようと現地で奮闘している日本人の方がいます。西野義人さんです。彼はこの地域に “Greenhouse for all” という学校を作り、シリア難民の子どもに学ぶ機会を与えて、彼らが自立した生活をする手助けをしています。ここに通う子は、公立学校を落第した子、働きながら週数回のみ通う子など、様々な背景を持っています。西野さんは、親と面談をした上で子どもを受け入れ、アラビア語や算数など将来仕事をする上で必要になる科目はもちろん、アートや音楽などの情操教育を通して、彼らがシリア人としてのアイデンティティを誇りに思える授業も行っています。今回僕は、西野さんの学校で英語を教えるため、2ヶ月レバノンに滞在しました。
僕が教えるのは12歳から15歳までの生徒です。今までもボランティアが教えるものの、カリキュラムがなく、その場限りの授業になっていました。僕の役割は、英語を勉強すれば話せるようになるという「力がつく実感」を生徒に与えながら、僕が去ったあとに、現地の先生に授業を円滑に引き継ぐことでした。そのような期待のもと、鼻息荒く初日を迎えたのですが、目の当たりにした光景は驚くものでした。
授業中にグミを食べる生徒になぜか怒られる
朝、学校に行くと、生徒たちが何やら大声を出しています。男の子同士が喧嘩をして、止めに入った女子が暴力を振るわれて泣いていたのです。昼休みは、近所の悪ガキが学校内に侵入し、生徒と喧嘩を始める。止めに入った先生が石を投げられる。授業が始まっても、お菓子やパンを食べている生徒だらけ。立ち歩きはもちろん、トイレに行ったまま家に帰る生徒もいました。
英語を教えようと意気込んでいたのに、基本的なルールから教えなければいけないと感じ、先生たちとの会議で学校のルールを定めることを提案しました。授業は時間通りに始める、授業中はお菓子やパンを食べない、トイレは休み時間に行く。彼らが社会に出た時にも、役に立つ振る舞いです。ルールを守る子が増えると、授業が円滑に進むようになり、授業に集中する生徒が増えてきました。そんな良い兆しの中で、ある事件が起きました。
ある日、僕が授業を始めると、数人の生徒がグミを食べていました。僕が「お菓子を鞄に入れて。学校のルールだから守ってね」と伝えると、その生徒たちは不満な顔をし、机に突っ伏してしまいました。通訳の先生も困ってしまい、彼らを説得します。すると、ある子が「Nao先生が怒っている顔を見たくない。笑顔でいてほしい!」と言うのです。「君たちがルールを守らずグミを食べているから僕は怒っているんだよ」と伝えましたが、生徒は僕の言うことを聞きません。完全な授業放棄です。追い討ちで、グミを食べていなかった生徒からも「私もNao先生が笑っていた方が嬉しいのに、なぜそんな顔をするの」と怒られてしまいました。
「絶対、生徒の方が悪いはずなのに、なぜ僕が怒られなきゃいけないんだ。というか、授業中にグミを食べている子たちが、なぜあんなに偉そうなんだ…」と考えれば考えるほど困惑します。あまりにも生徒たちが堂々としているので、何か自分が間違っているような気がするほど。僕は「このように振る舞うことが、シリア難民の子どもたちの将来のためにになる」と思ってルールを定め、そのルールに反した生徒を注意しました。しかし、それに対して生徒は反発したのです。
その「生徒のため」は本当?
その日の夜、「生徒のため」と言いながら、生徒を見ずに、ルールや理想ばかり見ていたのかもしれないという考えが心に現れました。実際、シリア難民の子どもたちは複雑な環境下にいます。朝3時頃にレバノン兵士が難民キャンプにやってきて、抜き打ちで身元調査をすることもあり、熟睡できずに次の日を迎える子もいます。イスラム教徒は兄弟姉妹が多い家庭が多く、弟や妹の世話をして朝食を食べずに学校に来る子もいます。それぞれの家庭や個人の事情があり、個々で日々の状態は違うはずなのに、僕はそれを一括りにして「生徒のため」「難民のため」と単純化していたのです。
このように考えると、「生徒のため」はいつも正しいわけではありません。生徒のためと思えば思うほど、その生徒を苦しめてしまうこともあります。では、教員は何を指針に、どのように振る舞えばいいのでしょうか?僕が思い出したのはある生徒の言葉「Nao先生が怒っている顔を見たくない。笑顔でいてほしい!」でした。
このような先生で「あるべき」ではなく「ありたい」を大切に
過去を振り返れば、自分は愛とユーモアを持ち、常に生徒の前で笑顔でいたいと思っていました。しかし、レバノンだから、難民だから、このような先生で「あるべき」という思いこみが、こう「ありたい」という思いを忘れさせていたのです。そして、どんな人で「あるべきか」は、本来の自分の姿とズレがあり、人を苦しめることがあります。それを思い出させて、僕自身を楽にしてくれたのは、まぎれもなく生徒だったのです。
さて、先生方はどんな先生でありたいですか?「学校ではこのように振る舞うべき」「この学年はこのように教えるべき」という「すべき」を一度横に置き、自分はどんな教師で「ありたい」かをもう一度思い出してみませんか?きっとあなたの「ありたい」姿を生徒は喜んでくれるはずです。今日だけは、肩の力を抜いて、自分の思いに沿って「ありたい」自分になってみませんか。
最後に、僕の「こうありたい」と思う姿で授業できた時の動画を掲載します。レバノンに住むシリア難民の子どもたちと共に英語の歌を歌った時の様子です。