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不在の存在性について──『行方不明展』に思ったこと

この展示はフィクションです。

「現実逃避」という言葉があります。人は「現実から逃げたい」と思うとき、果たしてどこへ逃げたいのでしょうか。

2024年夏、東京日本橋で行われた展示『行方不明展』に行ってきました。こちらはホラー作家「梨」氏が脚本とのことで、氏の現実と創作の垣根を崩すような作風が好きな私はとても楽しみにしておりました。

会場地図。パンフレットなどグッズ販売コーナーも。

会場では「行方不明」にまつわるいろいろな物品が、人にまつわる行方不明の「身元不明」、場所にまつわる「所在不明」、ものにまつわる「出所不明」、さらに事象にまつわる「真偽不明」の4つのセクターに分けて展示されています。


入口すぐ、行方不明者を探すポスター。新しいものも古いものもあり途方もない時間を感じさせる。

例えば、「身元不明」の人々にまつわる掲示物。 それらは消えてしまった人の痕跡であると同時にその人を探し求める誰かのあえぎにも思われます。この場にいない数多もの人々の、その「不在」がかえって「存在」を痛いほどありありと浮かび上がらせるのです。

古い携帯電話の山

特に印象に残ったこの展示、地面にまで散乱するたくさんの携帯電話。

「電話が(ゆくえがわからない妻に)繋がらないのは、携帯が壊れているからだと思って、別の携帯を試したらいつか会えるかもしれないと思って、色んな機械を集めて何度も何度も試したけど、でも、もういい」

キャプションを読むと、そこにいない夫婦の関係を思い、考察し、胸につまるものがあります。きっと藁にもすがる思いでいくつもの携帯を買い直してはかけ、買い直してはかけ……。妻を喪失した夫の狂気を思わせるほどのその想い、そして、諦め、受け入れるまで。果たしてこの妻は「行方不明」だったのでしょうか。妻と過ごし、喪い、受け入れるまでこの夫はどのように時を過ごしたのでしょうか……。

それぞれのセクターを順路に沿って行くとプロローグ、エピローグとして展示の前後に物語が付されており、セクター毎に進行していきます。そして、人、場所、もの、こと、の4つに分かれたセクターの展示すべてがある一つの事象〈行方不明〉にまつわるものであることがほのめかされます。

文章の共有はNGとのこと。

ここからは私の解釈になります。展示の世界観にも触れるものですので、ご承知おきください。

どうやら一般名詞としての「行方不明」とこの展示でほのめかされる怪現象〈行方不明〉は違うものであるように思われます。
思うに、現実から逃れたいと人が思うときの行き先としての「架空のどこか」、それが具現化して現実に侵食してくる現象、そして人々が「そちら側」に行ってしまうこと。それがこの展示で扱われる現象〈行方不明〉なのではないでしょうか。

ある個人サイト。

この世界から消えてしまいたい、でも、生きていたい。〈行方不明〉を望む人々、そして成し遂げてしまった人々のその思いは「逃げ」ではなく全く別の世界に「進む」ということを指しているようにも思われます。別世界では周囲の全てをリセットして前向きに歩んでいる彼等がいるのかもしれない。

この展示はホラーとしてのキャッチーさ、不謹慎さゆえに話題になり、消費されてしまった面もあるように思われます。しかし、ここで描かれる世界は解釈するほどに深く、切ない。人として現実世界を生きることへの無力さ、そして諦め。さらに、そうした諦念から目の前を去った人に取り残されてしまった人々のやるせなさ、悲しみ、執着、叫び。忘れられたい人と忘れたくない人、そのどちらもがどこかを彷徨い続けている。それはきっとこの現実世界に、あまりに普遍的な、ありふれた苦しみ。

現実の苦しみは人々をフィクションへと駆り立てます。ここではない架空のどこか。そしてフィクションはかくも容易く現実に侵食する。それは脅威であり、それと同時に現実逃避を望む人々にとっては救いでもあるのです。

勿論、別の世界に行けたとしてそこも世界である以上、生きる苦しみはあるのでしょうが。

この展示はフィクションです。

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