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わたしたちが選択すべき未来を学生たちと考える| 再生可能エネルギー福島視察レポート

新年を迎えた1月28日・29日に、福島再生可能エネルギー視察モニターツアーが開催されました。今回のモニターツアーは、学生を中心とした若者に参加していただき、若い世代の観点から視察ツアーを体験し意見をもらうことで、より幅広い世代へ届けるための試みです。

若い世代の代表として、生活クラブの内定者である大学生の加藤さん、山口さん、小笠原さん、成城学園大学の学生である三浦さん、渡邊さん、そして唯一の30代としてデジタルコミュニティマネージャーの川原さんにご参加いただきました。
初めて福島に訪れた方も多く、原発事故や再生可能エネルギーについての前提知識も各々違うため、さまざまな意見をいただくことができました。

今回のツアーは飯舘電力の千葉さん、小林さん、佐藤さん、そして生活クラブの半澤さん、千野さん、東京新聞記者の池尾さんも参加されました。解説はいつもと同じく千葉さんが担当いたします。

1日目は飯舘電力でのオリエンテーションを経て、まずはバスで帰還困難区域である浪江町の視察に向かいました。

3.11当時の記憶を振り返る


道中の車内では、東日本大震災当時、各々がどう過ごしていたかの話題に。
奇しくも3月11日は千葉さんの誕生日で、震災前まではケーキを食べる日だったのに、震災後は黙祷を捧げる日になったそうです。川原さんは震災当時、長崎におり、Twitterで地震の経過を追いながら、大変なことが起こっていると感じたそうです。SNSが活発になろうとしていた2011年だからこそ、リアルタイムで情報を得ることができたのです。友人の中には実際に被災地に赴き支援活動をしていた人もいたそうですが、日本で起きた出来事とはいえ、当時は自分ごととして捉えてなかったそうです。

バスが進んでいった先の道路の両脇に現れたゲートが、この先が帰還困難区域であることを知らせます。車で通過することはできます、震災から10年以上経った今も人が住めない無人の町で、いまだに帰って来ることができない地域なのです。シンと静まり帰った町の家の窓は割れていて、生活がそのまま置き去りにされている中の様子が見て取れました。

学生たちはバスの窓に張り付きながら、帰還困難区域のゴーストタウンのような景色を驚きの表情で眺めていました。福島に来て初めて、いまだ残る原発事故の傷跡を目の当たりにしたのです。

東日本大震災は天災ですが、原発事故は人災だと千葉さんは解説します。二度と原発事故を繰り返さないためにも、飯舘電力は再生可能エネルギーに心血を注ぎ、脱原発の世界を目指しているのです。さらに原発事故の風化防止のためにモニターツアーのナビゲータ役を担う千葉さんは、若い世代に語り部を継いでくる若者も必要だと言います。

渡邊さんは震災当時小学3年生で、クラスのホームルームの時に震災を体験したそうです。かなり揺れを感じたそうですが、東北が大変なことになっていることはニュースで知ったんだとか。そして10年以上経って今回初めて福島を訪れて、今もなお帰れない土地があるということに衝撃を受けていました。おそらく周りの友達などは、いまだに震災による被害が残っていることを知らないので、伝えていかなきゃいけないと思ったそうです。

また、加藤さんは静岡県の沼津出身で、家がすごく海に近いため、成長するにつれて東日本大震災で起きた津波の恐ろしさに想像が及ぶようになったそうです。静岡にも浜岡原発があり、福島の原発事故と同じ被害が起こった場合に、実家がある静岡市も被害の範囲に入ってくるそうで、同じ状況になったらどうしようと何度も考えを巡らせたと言います。また、大学では「連帯」をテーマに研究しており、災害を体験した地域で何ができるのかを千葉さんに問いかけました。

千葉さんによると、震災直後、被災した人たちはみんな同じ立場に置かれていたため、なんとかしなければという連帯の気持ちが育っていきました。でも、時を経ると共にその熱気は失われ、いまなお福島復興に向けて行動している人は少ないと嘆きます。一番の問題は、人災で起きた被害をお金でどうにか解決しようとしたこと。被害地域によって補助金をめぐる格差ができてしまったため、連帯が途絶えてしまったと言います。


村の活気をどう取り戻せるか

浪江町津島地域を通り過ぎた後は、飯舘電力第1発電所がある、飯舘村役場周辺の見学に向かいました。飯舘村はかつて美しい村連合に選ばれるほどの村だったにもかかわらず、原発による被害で全村避難となり、2017年3月に除染がひと段落して村民が戻り始めましたが、そのうち若者の比率はわずが1.7%だそうです。

ここには飯館電力の第一号の発電所がある特別養護老人ホーム、大きな復興予算を投入されて建設された小中一貫校や、汚染土を補うために半分削られた山など、飯舘村を語る上で、欠かせないところが集まっています。

愛知県出身である小笠原さんは、自分が住んでいた街がもし飯舘村と同じ状況になったら、また街に戻ってくるかどうかを考えてみたそうです。昔から街に住んでいる年配者と若い人では、住んでいる場所への思い入れの深さも違うため、なかなか若者が戻ってこないのではと推察します。そのギャップを埋めるために、どういう施策を行えばいいのかという質問を千葉さんに投げかけました。

千葉さんは、なんで若者が戻ってこないのかは誰にもわからないと言います。ただ、ハード面への投資しかされていなく、コミュニティなどソフト面への投資がされていないのが問題だと指摘されます。小中一貫校に通う学生たちも半分以上が村外からであり、もっと若者が村へ戻ってきたくなるような施策が必要だと言います。飯舘村に戻ってくるメリットがなければ、戻ってくる必要性もないからです。

いいたてホームの目の前の南向きの一等地には、飯舘電力の記念すべき第1号機である太陽光発電ソーラーパネルが設置されています。ここで使われている電気は、再エネ電力を販売する新電力会社が購入しています。

続いてソーラーシェアリングの見学へ向かいました。野立てのソーラーパネルよりもソーラーパネルの方が背が高く、上のパネル発電の売電収入を得ると同時に、下で農作物を作ることができる、農業モデルです。この農地で栽培された牧草は、かつて飯舘村のブランド牛であった飯舘牛を復活させようとする人たちに提供しています。
さらに電気を直流電気から交流電気に変えるパワーコンディショナーが設置されていますが、飯館電力では別に100Wコンセントを追加設置しており、災害などで電気が通電しなくなった時に、炊飯器を持ってくるとお米を炊いたり、携帯の充電をすることができます。震災の経験を生かした工夫がなされている発電所です。

同じくパワーコンディショナーを設置している静かな発電所も見学し、飯舘村での見学を終えました。

休憩として立ち寄った道の駅には、「凍天(しみてん)」という佐藤さんイチオシの福島のソウルフードが売っていました。もちもちのドーナツ生地の中によもぎ味のしみ餅が入っている食感が楽しく、みんなおいしいと口を揃えて頬ばっていました。

この道の駅も補助金が投入され、道の駅の裏側には、子どもたちのための遊び場が設置されていますが、現在は立ち寄る子どもが少ないようです。

1日目の宿泊地であるガーデンホテル喜多方に向かう道中で、飯舘村を復興させようと事業を起こす外部移住者や、若者に対しての支援の必要性についての議論が交わされました。

デジタルコミュニティのマネージャーを務める川原さんは、中央集権型のコミュニティではなく、自立分散型のコミュニティを作ろうとしているそうです。でも、自発的に行動する人が少なく、飯舘村が抱える問題とのリンクを感じ取っていました。

外部移住者たちにとって、飯舘村だったらチャレンジしてみようと思う魅力があったり、のびのび実験できるような環境があれば、より挑戦をしようとする若者が増えるのではと感じたそうです。

千葉さんも小さいコミュニティを増やしていくのには賛成だと言います。飯舘村の外部移住者たちは雑貨のお店を作ったり、眺めが良い洋食のお店を作ったりと、小さな点は生まれ始めています。その人たちを起点に周囲の人を巻き込んでいけば、未来は明るいと言います。そのためには現状で満足している村民との合意形成をうまく取っていけるようなソフト面での支援が必須だそうです。

川原さんの地元である長崎も、他県から来た移住者がカフェを作ったことで、人が集まった実績があるため、飯舘村もその流れができていけば、活気づいてくるはずです。


会津電力の発起人が語る、生活者としての自覚


参加者たちが泊まるガーデンホテル喜多方は、大和川酒造店9代目当主であると同時に、会津電力の創立者の佐藤彌右衛門さんが運営しているホテルは、館内の電気はすべて会津電力が作っている再生可能エネルギーが使用されています。会津電力は福島で再生可能エネルギー事業を行っている会社のひとつです。ホテルにチェックインを済ませた後は、これまた「人文知」という彌右衛門さんが借り受けているレトロ感満載の喫茶店(通常は閉鎖)に集まり、彌右衛門さんを囲んでみんなで夕食をいただきました。提供されたお弁当は、近くのレストランを営んでいる若い夫婦が作ってくれたものです。

参加者それぞれが彌右衛門さんに自己紹介をし、各テーブルで今日の感想などを話し合いながら親交を深めていきました。成城学園大学の三浦さんと渡邊さんは経済を専攻しているため、エネルギーについて学ぶ機会があまりなかったそうです。ですが、三浦さんはおばあさんが会津出身なこともあり、もっと福島について知っていこうと思ったそうです。

大和川酒造店の日本酒をいただきながら、焚き火を囲みながら、夜がふけていきました。

二日目は、ガーデンホテル喜多方のすべてのお湯を供給しているフェレットボイラーの見学から始まりました。フェレットは間伐材や枝打ちされた木材を乾燥させてチップにしたバイオマス燃料で、これを機械で自動的に取り込んで燃やしています。実際にフェレットチップをみんなで触ったりしながら説明を受けました。

世界中で使われているエネルギーの中で、半分を占めるエネルギーは何かというクイズが千葉さんから出されました。電気ではないのかという回答が学生たちから飛び交う中、川原さんが答えた「熱」が正解でした。驚くことに、熱が世界中のエネルギーの中で半分を占めるのです。つまり、省エネを目指すなら、まずは熱の使用を抑えるのはもちろんのこと、バイオマス燃料で熱供給を行うことで、脱炭素に貢献することになるのです。

ホテルを出発して向かった先は、1790年創業の老舗の造り酒屋である大和川酒造店北方風土館です。まずは大きな円卓を囲んで彌右衛門さんのお話を伺いました。

彌右衛門さんが会津電力を立ち上げたのは、食料自給率が1000%と言われるほど自然豊かな土地である会津さえも、エネルギーは化石燃料や原発に頼っていたことを、原発事故を通して思い知らされたからです。

福島で原発事故が起こる前は、世界で起きた大きな原発事故というと、チェルノービルの原発事故でした。ヨーロッパ全土が被害を受けた危機感からエネルギーの自給自足として再生可能エネルギー発電が始まったそうです。

その当時日本でも太陽光発電のシステムは作っていましたが、ヨーロッパで起きた遠い話と捉えていたため、再エネに転換する機運は起こりませんでした。原発で小さな事故は頻発していたのですが、それが公になることもなく、安全を謳われたまま原子力発電が続いていました。しかし東日本大震災で大きな事故となり、福島に甚大な被害を及ぼすことになったのです。日本も危機感を持って再エネに取り組んでいればと、彌右衛門さんは無念そうに話されていました。電気がもっとも必要なのは首都圏なのに、なんでその電気を作るために福島県が負債を負わなければいけなかったのかと。

震災だけの被害だったら復興も早いですが、放射能が撒き散らされた地域は世代を跨ぎ、長い時間住めなくなる可能性があり、これまで築き挙げられた歴史がすべて止まってしまうのです。地域に根付いてきたコミュニティや人間関係や生業なども、原発事故はすべてを消滅する危険性がはらんでいます。

彌右衛門さんは関東大震災の時に祖父が行った水の無償提供と同じく、東日本直後すぐに、水を被災地に届ける行動にでます。酒造店の命の水を福島の至るところに水を届けました。それができたのも、会津が放射線の汚染を免れたからこそ。会津も汚染されていたら、今まで自給自足した食料や水さえもダメになっていたことに戦慄した彌右衛門さんは、安全なエネルギーを自給自足しなければと立ち上がり、会津電力を設立するに至りました。

同時に雄国大学という再エネを学べる施設を作り、再エネの仕組みやエネルギーの未来についての啓蒙活動も行っています。

しかし再生可能エネルギーの自給自足率が100%になるのは、短期間でできるもではありません。山口さんは再生可能エネルギー政策を推し進めるにあたって、必要なことは何かを彌右衛門さんに質問されました。

それに対して彌右衛門さんは、まずは省エネを心がけることが重要だと言います。一人ひとりが電気を使わずに暮らせる方法、仕事をする方法を探っていきながら、自分で電気を発電してみることをお勧めしていました。

そして村や町単位で電気を分け与える工夫をすればいいと言います。例えば家族で住んでいる家では昼間に電気を使わない分は、一人暮らしの老人に電気を分けたりと、みんなが協力しながら助け合うことで、再エネ100%の実現の可能性は高まっていくのです。

小笠原さんは、自身もそうですが、周りにいる若い人たちの中に、本気でエネルギーについて考えている人はいないと言います。そういった若者たちがエネルギーについて自分ごととして考えたり勉強していくためには、どんなきっかけが必要かと問いかけました。

彌右衛門さんは日本人の性質について指摘されます。周りの空気を読んで、なるべく目立たないように行動して、自分だけが良ければいいと思っていてはダメだと。みんなそれぞれの道徳観を持っているはずだから、誰かがどうにかしてくれると思わずに、自分から危機感を持って行動する勇気を持つべきだと言います。

実際に彌右衛門さんは、放射能によって水も米もダメになると、酒造店が終わるとの危機感から奮い立ち、エネルギーについて勉強するに至ったんだとか。自分の生活に直結する問題として捉えられると、おのずと行動は付いてくるのです。さらに、こういう話を周りの家族や友達と積極的にしてほしいと訴えます。

彌右衛門さんとの意見交換会の後は記念撮影をし、北方風土館の見学に移りました。建設当時は酒造りの作業蔵として使用されており、現在は見学施設として開放されています。

仕込み蔵として使用されていた「江戸蔵」と「昭和蔵」、貯蔵蔵として使用されていた「大正蔵」の3つの蔵の見学をした後は、大和川酒造店のお酒を試飲しながらお土産選びを楽しみました。大和川酒造店のお酒は米は自家栽培であり、電気は会津電力で発電した再生可能エネルギーで作られています。

気に入ったお酒を実際にその場で購入できるため、学生たちもお酒選びを楽しんでいました。

そして最後は土湯温泉の地熱バイナリ発電所と小水力発電所に向かったのですが、あいにくの天気のため施設の見学は叶わず、土湯温泉にある会議室でのレクチャーになりました。
土湯温泉は震災直後に観光宿泊客が県内外から一人も来なくなってしまった温泉街で、その復興のために立ち上がったのが「元気アップつちゆ」の初代社長である加藤勝一さんでした。固定価格買取制度FITが始まるのを機に、土湯温泉が持つ地域の特性に着目し、温泉の地熱を利用したバイナリ発電所と、東鴉川の急流を利用した小水力発電所を作りました。

それまでこけしと水芭蕉しか名物がなかった土湯温泉とおっしゃっていますが、土地の利を活かした自給自足を叶えられている再生可能エネルギー事業の見本として、現在は発電所が観光施設にもなっているそうです。再生可能エネルギー事業によって、温泉街の復興に兆しが見えたのです。

わたしたちでもできる、エネルギーについての発信

発電所を観光する人は、どんな人がいるのかという質問が、加藤さんから飛び出しました。それに対して千葉さんは、源泉を持つ他の地域の人や、大学の教授など、これまで4000人以上が視察に来たと言います。それだけ土湯温泉の発電所が注目されていることが窺い知れます。

二時間ほどレクチャーを受けた後は、バイナリ発電で排出されたお湯を再利用し養殖している大小のオニテナガエビの釣り体験が出来るカフェへ移動し、はじめて見るオニテナガエビを学生たちももの珍しそうにしていました。

これにて二日間のモニターツアーは終了しました。福島駅へと向かうバスの中で、それぞれが今回のツアーについての感想を述べました。

渡邊さんはこのツアーに参加するまで、電気について考えたことがなかったと言います。実家暮らしのため電気料金がいくらなのかも知りませんし、電気を選ぶことも考えたことがなかったそうです。しかし今回千葉さんや彌右衛門さんから直接、再生可能エネルギーに託す想いを聞けたことで、将来的には自分で電気を選択できるようになりたいと思えたそうです。

加藤さんは大学で再エネについて学ぶ機会はありましたが、今回さらに深く学べたそうです。大和川酒造店で買ったお酒を親と飲みながら、福島での出来事を話せればと言います。また、残りの大学生活の中で、今まで勉強したことと今回学んだことを絡めて、自分なりに論じられるようにしていきたいと抱負を掲げていました。

小笠原さんは、再エネを進める中での大変さを大いに感じたと言います。また、今後の若者の意識や行動が大きな鍵を握るのではないかと感じたそうです。

川原さんは30代である自分が、上の世代の想いを、下の世代の若者へとつなぐ役目を担っているんだなと強く思ったそうです。そしてツアーを通して、もっとみんなが積極的に意見交換ができる仕組みがあれば良いのではと感想を伝えていました。

三浦さんは、ツアーに参加する前までは、東日本大震災は教科書の中の出来事に近く、他人事に感じていたと言います。しかし今回深く学んだことで、再エネを身近に感じられるようになり、福島にいる親族ともっといろんな話をして行こうと思ったそうです。さらに家に帰った後もスマホを充電する時に、今回お会いした、再エネ事業に尽力している方々の顔を思い浮かべることで、今後の自分の行動も変わっていくかもしれないと期待し、まずは省エネから挑戦して行こうと決意を固めていました。

山口さんは、再エネの今後の可能性と現在の問題点をよく知ることができたと言います。そして今回のツアーを発信していく中で、小さな輪から広げていき、結果的に多くの人の目に留まるような工夫をしていくのがいいのではとの意見を述べていました。

今回のツアーの感想を学生たちがSNSを通して発信する予定ですが、その発信方法の議論も広がりました。
きちんとしたレポートとして発信するのもいいですが、「福島に初めて行ってきた」と巡った場所の写真の投稿から興味を持ってもらえたり、話題が広がっていく可能性は大いにあります。また、お土産を渡しながら今回のツアーの感想を伝えてもいいですし、さらにそのお土産が気に入ってもらえると、福島に足を運ぶ機会につながることもあります。大々的に発信をしなくても、身近な人たちに自分の言葉で福島で見たこと感じたことを伝えることから、始めていくのがいいという結論が出されました。

最後に、千葉さんから締めの言葉として、若い世代と意見交換ができたことへの喜びが述べられました。今後も語り部として、エネルギーについて啓蒙していくと同時に原発事故の風化防止に務めていきたいと。そしてこの活動をつなげていきたい人がいれば、一緒に手を取り合って行こうと、学生たちに投げかけていました。

(文:李生美)