見出し画像

岩崎弥太郎、シュンペーターに出会う

1.シュンペーターの「イノベーション」と岩崎弥太郎

 岩崎弥太郎は近代的営利企業としての会社を創造した革新的な経営者イノベーターである、と私は述べて来ました。これは最早一般的な語彙である「イノベーション」という言葉を応用したもので、二十世紀の経済学の巨人ヨゼフ・アロイス・シュンペーター(1883~1950)の「イノベーション」に関する学説に直接あたったわけではありませんでした。弥太郎が「イノベーター」である由縁を、シュンペーターによって裏付けできるのか検討してみました。

 結論を先に言えば、私の試みは半ば失敗、半ば成功でした。失敗というのは、シュンペーターは、経済発展を生む「新結合=いわゆるイノベーション」を企業家(アントレプレナー)の創造によるものとしながら、具体的な個人や企業を一切挙げていないからです。勿論、まさかシュンペーターが弥太郎を知っていると思ったわけではありません。それでも、誰か参照できる経営者の名前が出て来ないか、という期待があったのです。

 具体的な企業や経営者の研究は経営学や経営史学の対象だという知識はあったものの、ここまできっぱりと断絶していたのは想像以上でした。経済学は素人目には抽象的にさえ見える経済理論をこととする学問のようです。田舎に住んでいた高校時代、友人の兄の経済学部生が持ち帰った教科書、サムエルソンの『経済学』に数式がずらりと並んでいるのを見て、数学の苦手な私は「文系の学部だと思っていたのに」と呆然としたものでした。

2.イノベーションとは何か?

 シュンペーターは数式を使わない経済学者です。たとえ企業名や人物名の出て来ない抽象的な論考ではあっても、シュンペーターは現実の人間や経済事象を基にしてイノベーションによる経済発展を論じたわけですから、それらを具体物に還元して考えることは可能なはずです。半ば成功というのは、こうして、弥太郎個人や、弥太郎のなした事業に通じる記述を見出せたからです。

 ここで、シュンペーターによる新結合=イノベーションの定義を見てみます。シュンペーター研究者として著名な根井雅弘京都大学経済学部教授は「新結合とは……生産的諸力の結合である」という定義と、新結合の五つの分類を下のように示しています。

一 新しい財貨、あるいは新しい品質の財貨の生産
二 新しい生産方式の導入
三 新しい販路の開拓
四 原材料あるいは半製品の新しい供給源の獲得
五 新しい組織の実現(たとえば、トラスト形成や独占の打破)

伊藤光晴・根井雅弘『シュンペーター-孤高の経済学者-』岩波新書、1993年

 五の後半に( )書きがなければ、弥太郎は日本において会社を創造して「新しい組織の実現」というイノベーションを成し遂げたのだ、と一気に宣言できるのですが、そううまく行きません(そもそもこの「組織」は原書では「organisation」)。弥太郎が会社組織を作り上げたことは、むしろ「二 新しい生産方式の導入」に当てはまるでしょう。また、弥太郎の三菱は、外国海運会社による独占を打ち破ったことでもイノベーションを起こしたことになります。

3.シュンペーターの用語の整理

 この後、シュンペーターは企業家のリーダーシップや彼らがイノベーションを起こす動機について記しており、それらが弥太郎に当てはまるのかどうか検討してみたいところですが、ここまでの記述が長くなったので次回に回します。その前に、シュンペーターの用語に関して私自身が混乱していたので、重要な二つの語についてまとめておきます。

 上述のように、現在「イノベーション innovation」として知られる言葉は、シュンペーターの著書『経済発展の理論』(1912年)では「新結合 new combinations」と記されています。日本では長く「技術革新」という訳語で知られていましたが、今では誤訳のように感じられます。訳語ができた1958年当時から近年まで、日本では科学技術の革新こそがイノベーションだと考えられていた表れでしょうか。

 私は上述のように「イノベーション」の派生語を使って弥太郎を「イノベーター」と表現しました。シュンペーターが言う「アントレプレナー entrepreneur=企業家」の意味のつもりでした。元はフランス語で、シュンペーターはオーストリアを出自としつつもフランスの経済学から多くを学んでいます。一方、英米の経済学では、当時「アントレプレナー」に当たる語が存在せず、外来語 entrepreneurが定着しました。ただ、弥太郎をアントレプレナーと称するのは、なぜだかお洒落すぎる気がします。

「アントレプレナー」の日本語訳について、上記の根井氏は下記のように述べており、私はそれに従うことにします。「経済学の邦語文献では、「企業家」「企業者」「起業家」などの言葉が混在しているが、私は原則として「企業家」を使いたい」なお、シュンペーターSchumpeterは「シュムペーター」と記されることもあります。

根井雅弘『企業家精神とは何か シュンペーターを越えて』平凡社新書、2016年

いいなと思ったら応援しよう!