伊井直行

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伊井直行

当note当初の目的である「常陸国風土記」現代語訳を完成した後も、note継続中。一方、小説家は休業継続中。最新作は『宮殿のアルファベット』(Kindle版)。レワニワ書房とレワニワ図書館の従業員。生年公示協会会員(1953年生まれ)。古い経歴はWikipediaにあります。

最近の記事

長崎奉行の家来、男装の元遊女とお伊勢参りへ

 長崎奉行行本多正収の家来が、丸山の元遊女と「欠落」する際に男装をさせて同行したものの、露見して叱責されたという一節が「天保風説見聞秘録」にあります。駆け落ちは本当だったとしても、男装は無理があるようにも思うのですが、塩漬け死体の処刑が本当だったのですから、これも疑うのはやめておきましょう。原文はおおむね以下の通りです。  主君のお供をするのに、男装した元遊女を同行するという危険をなぜ犯したのか不思議です。その誘因は、恐らく半右衛門が長崎奉行一行と別れて伊勢に寄り道したこと

    • 長崎奉行、秘密の「大事件」

      1.本当にあったことなのか?  文政12年(1829年)11月、長崎奉行本多正収が江戸に戻る際、家来たちが長崎で深い間柄になった遊女や素人女性を秘かに連れ帰ろうとしました。これが発覚し、総計22人が関所破りの咎で重い処罰を受け、正収は閉門とされました。  私はこの事件を、最近読んだ『日本交通史』(平成4年)中の渡辺和敏「関所と番所」によって知りました。こんなことがあったのかと驚いて調べようとしたものの、同論文には出典が記載されていません。長崎の識者に史料を知らないかと問い

      • 「西征雑録」完走、「幕末青春日記」完結

         久しぶりに「はるかな昔」を更新しようと下書き用ファイルを開いたら、前回書いた「失敗は防げるか」が目に入って恥じ入りました。失敗をしないよう「最善を尽くす」と書いたのに、その後も「西征雑録」(以下「雑録」)の紹介で何度も間違いを犯し、その都度訂正を余儀なくされたのです。  今回は、「雑録」の紹介が終了し、「岩崎弥太郎 幕末青春日記」が完結したことをお知らせするための更新です。8月18日に最終回をアップし、その中で「青春日記」が完結したと記してから1週間が経ってしまいました。

        • 失敗は防げるか?

           先日、「岩崎弥太郎 幕末青春日記」の続きを書いていて、手痛い失敗をしました。注意すれば防げたのにと後悔する一方で、失敗に到る必然と思える事情もあり、これを免れる方法は本当にあったのだろうかと考えてしまいました。  弥太郎は赴任地の長崎を離れて故国土佐に戻るのに、九州を横断して豊後国(大分県)佐賀関に到り、豊後水道を渡って四国に戻る経路を選びました(往路は山陽道経由)。四国の東端、九州に向かって細長く伸びる佐田岬半島南側の付け根にある港町八幡浜に、弥太郎は上陸しました。八幡

        長崎奉行の家来、男装の元遊女とお伊勢参りへ

        マガジン

        • 常陸国風土記を旅する
          8本
        • 楽しい風土記
          16本

        記事

          勝小吉の吉原記述、言文一致と遊郭関連の文献

           勝海舟の父勝小吉は、自らの破天荒な人生を記した『夢酔独言』の書き手としても知られています。この自叙伝は江戸弁の文章で綴られていて、いわば「言文一致」でした。小吉は幼少時から学問を嫌って「文盲同然」だったため、後に読み書きを覚えたものの候文や漢文の文章を書けなかったのです。粗野で読みにくいものの、独特の魅力があります。 『夢酔独言』が言文一致の観点から注目されないのは、その文体が明治後期に形成される口語体に資するところがなかったからです。ところで、私がここで注目したいのは彼

          勝小吉の吉原記述、言文一致と遊郭関連の文献

          弥太郎日記の検証文献リスト

           文献リストを作り始めて間もなく、やらなければ良かったと後悔しました。長いリストになりそうな上に、奥付を確認するのが思ったより面倒な作業だったからです。上の写真のように、参照した文献の多くは奥付を含めて必要な部分だけコピーしておいたのですが、実際に書き始めると奥付の内容の確認を改めて取らなくてはならないケースが少なくありませんでした(ネット上で作業を完結できるのは有り難いことでしたが)。  これだけ多くの日記を見ても、岩崎弥太郎の日記に似た内容のものは探し当てられませんでし

          弥太郎日記の検証文献リスト

          弥太郎の日記「瓊浦日録」を「完走」

          「瓊浦日録」の紹介を半年前(2023年11月4日)に始めて、日記の最後の日である万延元年(1860年)閏三月十八日までやっと終えることができました。一ヶ月分としては他より短いのですが、これを「幕末青春日記」のマガジンとしてまとめました。一日始まりで順番に読めます。  紹介を終えるのが想定していたより大分遅くなったのは、持ち前の怠惰な性質に加え、遅れても誰にも非難されないことが大きく作用していました。何か理由がつくと、すぐサボってしまうのです。しかし、別の事情もありました。紹

          弥太郎の日記「瓊浦日録」を「完走」

          大吉原展の光と影

          1.芸大美術館へ  先週木曜日(4月11日)の午後、大吉原展を見に東京芸術大学美術館へ行きました(上野の桜は盛りを過ぎていました)。岩崎弥太郎日記を理解するために、遊郭に関する知識を補おうというのが一番の目的です。江戸時代にも遊郭にも以前から興味があったわけではないので、参考になることがあればと思ったわけです。また、喜多川歌麿が好きなので、その展示も楽しみでした。  入場料二千円。平日午後というのに結構混んでいて、若い観客、それも女性が多いのが印象的でした。美術展は、平日

          大吉原展の光と影

          言文一致と日本語標準形

          1.小さくて大きな違い  言文一致とは話し言葉と書き言葉を一致させることではなく、話し言葉を元にした口語の文体を確立することだった、と前回述べました。今この文章を読んでくれている方は両者の違いを分かっていただけると思いますが、中には、なにが違うの? 小さな違いでは? と感じる人もいるかもしれません。私が言文一致について多くを学んだ野村剛史氏の著書から、明治時代、口語体が確立する前の文章の例を引きます。  明治前期には言と文とを一致させようとする様々な試みがなされ、上記のよ

          言文一致と日本語標準形

          言文一致という「言葉の罠」

          1.言文一致は誤解を生む言葉  noteに書いている人で、「言文一致」という言葉を知らない人はまずいないと思います。しかし、正しく理解している人は案外少ない可能性があります。私は間違っていました。この四文字熟語は実は誤解へと導くトラップなのです。私は罠にかかった後になって、誤解の「危険性」がかねてから指摘されていたことを知りました(後述します)。  私が何となく理解していた言文一致は、次のようなものでした。「明治時代、それまで古文(文語)で記されていた文章を話し言葉(口語

          言文一致という「言葉の罠」

          『「カギ括弧」のない時代に……』の記事を訂正します

          1.誤りの報告  何を今さらと思われるかもしれませんが、昨年5月25日に投稿した『「カギ括弧」のない時代に文字に記された声を聞く』の記事について、誤りの報告と訂正をします。誤りに気づいたのは数ヶ月前で、訂正しなくてはと思いながら時が過ぎてしまいました。何をどう間違えたのか、考え、調べる必要があったためです。まずは誤りの箇所を示します。タイトルと以下の引用箇所です。 2.明治より前に「 も口語文も存在した  何がきっかけだったのか思い出せないのですが、ある時、江戸後期の滑

          『「カギ括弧」のない時代に……』の記事を訂正します

          「幕末青春日記」に新マガジン 丸山通いの功罪

           岩崎弥太郎が最初の長崎滞在時に記した日記「瓊浦日録」の紹介が3月分まで進んだので、1日から順に読めるようにマガジンにしました。下記のリンクから、どうぞ。日記に記載はありませんが、この3月に元号が変わり安政7年から万延元年になります(西暦1860年)。  3月の日記では、花街丸山の水に慣れた太郎が、遊蕩にふけったかと思うと反省し、なのにまた遊郭に繰り出し、また反省して……を繰り返しています。ところで、弥太郎が初めて西洋人と接点を持ったのは、この懲りない丸山通いのおかげ(?)

          「幕末青春日記」に新マガジン 丸山通いの功罪

          弥太郎の書いた「リアルな」日記

           前回岩崎弥太郎の日記は「当時ほかに類を見ない」と書きましたが、そのとき私は当然、自分が別の「黒い白鳥」の出現を恐れるべき立場であることを忘れていました。江戸時代の教養ある人士が、遊郭での放蕩を記録した日記が家族や子孫の手によって秘匿され、どこかに眠っている可能性はないとは言えません。  ところで、岩崎弥太郎が自らの遊郭での行状を詳らかに記録したこと自体、確かに驚くべきことではあるのですが、彼の日記の価値はそこに留まるものではありません。自らの心神の状態に目を向けていること

          弥太郎の書いた「リアルな」日記

          「黒い白鳥」としての彌太郎日記

           江戸期の日記や旅行記を集中的に読み、岩崎弥太郎の日記は明治維新期以前に類例のないものという推測に私は自信を深めていました。最近になって、ドナルド・キーン『百代の過客 日記にみる日本人』と、司馬江漢『江漢西遊日記』及びその解説を読んでさらに確信を深めました。『百代の過客』にも、芳賀徹氏の解説にも、弥太郎日記は登場しないのですが。  弥太郎日記は、昭和50年(1975年)に翻刻が刊本として公開され、意欲さえあれば今でも誰もが読むことができます。しかし彌太郎の日記は、隠されてい

          「黒い白鳥」としての彌太郎日記

          遊郭都市長崎での成長記録

           前回、岩崎弥太郎がどのように丸山遊郭に深入りしていったか記すと予告しました。若い弥太郎について考える入口にしようと考えていたのですが、誤解を生む可能性があることに思い至り、道筋を変えることにしました。ただでさえ悪役にされがちな弥太郎に、長崎での遊郭通いのせいでさらに悪い印象が重なるのではと危惧したのです。  弥太郎の日記は彼自身の成長記録となっています。現代なら、長く書かれた日記から成長の過程が読み取れるのは普通のことでしょうが、明治維新期以前には(私の知る限り)他に類を

          遊郭都市長崎での成長記録

          長崎丸山、誘惑の引力

          1.初心だった弥太郎  岩崎弥太郎は、長崎到着から一ヶ月以上が過ぎた安政7年(1860年)1月17日、花街丸山の遊女屋へ、同宿の者たちに無理矢理連れて行かれます。ところが、誰も遊ぶのに十分な金を持たず、弥太郎を先頭に遊女屋から脱走しました。このとき弥太郎は若輩ではなく、二十代半ばという一人前の年齢でした。  弥太郎がもっと若い時期、江戸に留学した際には、宿場女郎の本場である東海道を通った時にも、吉原のある江戸滞在時にも、遊女と遊んだ形跡はありません。当時は貧乏だったでしょ

          長崎丸山、誘惑の引力