渋沢栄一はなぜ岩崎弥太郎と戦ったのか?
1.悪役イメージの向こう側
岩崎弥太郎は、明治期以降、悪どい政商、財閥の親玉として印象づけられ、第二次大戦後には渋沢栄一の子息秀雄によって古い悪役イメージが再生産されました。栄一と弥太郎は明暗を分かち、暗い側に配置された弥太郎が日本近代の初期に果たした役割は、殆ど見えなくなってしまいました。
弥太郎が果たした役割とは何でしょうか? 私の視点からは会社、会社員の創造ということになりますが、ここでは弥太郎と三菱が日本の近代の出発点においてなした具体的な貢献を記します。公平を期して、渋沢栄一記念財団で研究主幹を勤めた木村昌人氏の著作から。
2.外国勢力との戦い
この後、木村氏は三菱がイギリスの巨大海運会社P&Oを「同航路から駆逐」したと記しています。それ以前にも、三菱は外国の海運会社が国内海運を支配するのを防いでいます。通信や物流を外国勢力に握られては、経済的な植民地支配をされるのも同然です。長崎時代から外国商人のやり方を熟知していた弥太郎が、三菱の会社としての組織力を生かし、この勝利を得たのでした。明治初期に三菱があったことは、日本にとって幸運でした。
さて、国内海運で弥太郎の三菱に勝てなかった他の海運会社が、外国勢力に太刀打ちできたでしょうか? そんなわけはありません。文明開化の激動の中、古い商家や廻船問屋が寄り集まって「会社」を作ったものの、配属された「社員」たちはそこで何をすればいいのか分からなかったという戯画的な出来事は、先進国の「会社」を外見だけ真似たことによる悲喜劇です。寄り集まるしか能の無い当時の「会社」の有様を見て、弥太郎は三菱が「会社ではない」と宣言したのでした。
3.栄一と弥太郎の対立の源
三菱が国内の流通の根幹だった海運事業で覇権を握ると、渋沢栄一は複数の海運会社を糾合して三菱に立ち向かいました。三菱が航路を独占し、運賃を値上げされても顧客は黙って従うしかないという状況を変えようとしたのです。運送事業は国内の経済活動の基盤となるインフラであり、ここからほしいままに利益を得ることは許されない、と栄一は考えました。まさに「合本対独占」の戦いということになります。
しかし、弥太郎と三菱の側からは違って見えます。海運は今でも戦争や不景気、天災の影響を受けるリスクの高い事業ですが、当時はさらに大きな危険を伴うものでした。天気予報もレーダーもない時代、船や貨物、人員を失う危険と常に背中合わせでした。さらに三菱は台湾出兵(明治7年、1874年)の際、政府の要請に応じて危険を伴う軍事輸送を成功させ、後に政府から優遇措置を得ました。当時、政府に近かった三井系はリスクを恐れて要請を断ったのです。
自力で海運事業に乗り出し、リスクを取った者が成功の果実を得るのは当然、と弥太郎、三菱は考えたでしょう。つまり、海運事業は公共的な流通インフラでもあれば、リスクをかたに利益を競う鉄火場でもあるという二面性を持っていたのです。その両面を栄一と弥太郎が代表して闘ったわけです。勝ったのは海運をホームグラウンドとする弥太郎の三菱でしたが、悪名を残すことにもなりました。
4.資本主義の二面性
渋沢秀雄は、フェアな栄一がアンフェアな弥太郎に負けたと示唆しています。秀雄には海運業の二面性が見えていませんでした。それは資本主義の二面性でもありました。過度な利益の独占を戒め、共同の利益を重視する渋沢栄一の「合本主義」は、資本主義経済の基盤となる銀行や、社会資本を築くインフラ事業(鉄道や電気、ガスなど)の構築などで有益だったでしょう。
一方、リスクを取らないでは成功を見込めない業界(海運、外国貿易など)においては、特に海外勢力と争う時には役立ちません。当時も今も同じです。エルピーダという「合本」は成功せず、アマゾン、グーグル、TSMC等の巨大企業は巨額投資と技術革新で競争を勝ち抜き、独占の利益を享受しています。彼らは評判がいいわけではありませんが、悪役ともみなされていません。
5.近代資本主義の両輪
栄一と弥太郎は互いを理解することができず、海運という資本主義の二面性が鋭く露呈した境界で争うことになりました。しかし、広い視野で見れば、両者は日本の近代資本主義を前進させるのに必要な両輪だったのです。それぞれの活躍が日本の近代を築いて来たわけですが、その後、片やお札の顔となり、片やドラマでひどい扱いをされるがままと評価において極端な対照を見せています。
それでも三菱は巨大財閥となったわけですから、評判が悪くても放っとけばいい、とは思うものの……岩崎弥太郎が先入観の妨げで正しく理解されないまま、追究すべき課題が放置されているのは残念です。私は、その一部、弥太郎の初期の日記について、もう少し検討してみます。
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