弥太郎日記に一区切り&本居宣長の日記
1.弥太郎日記紹介の進展
岩崎弥太郎の日記「瓊浦日録」の前半部(巻之一)の紹介を終えました。弥太郎の第一回長崎赴任時代の日記の半分をすませたことになります。一区切りついて、この日記はやはり面白い、紹介の価値のあるものだという思いがさらに深まりました。
弥太郎の日記は、史料として、幕末維新史や経営史の中の三菱研究という観点から主に二度目の長崎赴任期が注目されて来ました。私が紹介を続けている一度目は、歴史的な事件や人物と関係が薄いために史料的価値が低いとみなされ、弥太郎の伝記的な参考資料という扱いでした。私自身もまた(前にも述べたように)、軽く読み、要所を摘まんだだけですませていました。
2.江戸期の日記の面白さ?
弥太郎日記の真価については、いずれきちんと書くつもりです(査読や出版を経ない「野良論文」にします)。これから、弥太郎日記の紹介と並行して、江戸時代から維新期の日記を読んで行く中で面白く感じられた二つの日記について、弥太郎日記を読む参考として記します。
一つは、本居宣長が京都滞在時に記した「在京日記」。もう一つは、幕末の志士として一部で知られる清河八郎の「西遊草」という旅行記です(こちらは次回、紹介)。これら二つの日記は、弥太郎日記の独自性、その面白さや価値がどこにあるのか理解するための補助線となるでしょう。
3.本居宣長日記の雅な文体
江戸時代の知の巨人、国学者の本居宣長(1730年-1801年)は、断続的に日記をつけていました。メモ書きが多く、頂戴ものの長大なリストやら会食の詳細な献立など、それはそれで興味深い箇所もありますが、大部分は無味乾燥です。
ただ、京都遊学時代の「在京日記」は、源氏物語や枕草子の文体模写のような雅な文体で書かれていて、文章自体を読むのが楽しいという、私が触れた中で希有の日記です。以下、宝暦六年と七年(1756年、1757年)の日記から引用します。平仮名書きの部分に濁点や半濁点が付されないので、読んでいるあいだ謎解きが必要になるのですが。
「在京日記」の文章は、まるで平安期の宮廷の女性が書いたかのようです。一方、書いている宣長自身の身分は町人であり(かつ男性)、日記中で宣長が交際する人物も多くは同様です。京都の祭りや季節の行事、短歌や漢詩の会などについて宣長が美的な文章で記すと、「平民」の集いであるにもかかわらず優雅な雰囲気が漂います。このため、貴族的な文体とのギャップに微妙な違和感を覚えます。が、同時に、それを上回る面白みも感じられるのです。
4.宣長と弥太郎の日記に見る雅と俗
宣長の日記に、彼の内面が吐露されることはありません。近代以前、個人の内面は文章に記すべきものとは考えられていませんでした。なので、宣長の記述は生活や観察の表面を(極めて丁寧に)なぞって行くばかりで、深い感情や内的な屈折といったものは表現されていません。精神的な不安や夜の間に見た夢について記す弥太郎の日記が、江戸期の例外だという一つの証左でもあります。
宝暦7年9月13日の日記は、途中二箇所で各四行が欠損しています。後者では「東寺よりかへりける道にてもよほして」の後の部分。もよおしてからの顛末について記したものの、はしたなく感じられて削除したのではないでしょうか?(削除したのが宣長自身なのかは不明のようです)
かくして、優美であっても表面に終始する宣長の文章は退屈でもあります。一方、弥太郎の日記では、便意をもよおした際に誤って足袋を汚したことがありのままに記されています(「瓊浦日録」巻之二、2月23日)。雅と俗の対照、ここに極まる? ただし、弥太郎日記の面白さの主たる源は、こうした俗な書きぶりによるのではありません(以下、次回)。