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消された隅田川会談の逸話

1.注目すべき栄一伝

 岩崎弥太郎と渋沢栄一という明治実業界の巨人について、2回で終える予定を5回も書いてしまいました。二人の関係において必ずのように語られる隅田川会談が、実は歴史的事実というより栄一翁の思い出話なのだと言いたくて書き始めたのでした。ところが、栄一という参照点を置くと、弥太郎という人物の歴史的な意味と意義について思いがけずクリアな視界が開けたため、ついのめり込んでしまいました。さすがに今回で終わりです。

 5回書いた後も少しずつ栄一関連の文献を調べていたところ、土屋喬雄たかお『渋沢栄一』の新版(吉川弘文館「人物叢書」、平成元年)を見つけました(氏は『渋沢栄一伝記資料』の編集主任)。元の改造社版(昭和6年刊)は国会図書館デジタルコレクションで既に見ていましたが、その際、著書中に隅田川会談の記述があることを見落としていました。「隅田会談逸話のネタ元を探す」の回に示したリストにこの本を加えなくてはならないところです。

 しかし、本書中の記述は数行の簡単なもので、「合本」への言及もあることから、私の論旨には影響しません。ただ、「当時世人せじんは曹操と玄徳の会合に比したという」と記されているのは気になりました。これは、隅田川会談の逸話が栄一翁の思い出話以前から知られていたという証言なのでしょうか? しかし、会談を三国志の英雄の会合になぞらえる風説が流布されていたなら、他の栄一伝にも言及がありそうです。見あたらないので、私は土屋氏による脚色と考えます。

2.隅田川会談逸話のない栄一伝

 土屋氏は、上記新版以前にも同書の改訂版を出しています(東洋書館、昭和30年)。ここで土屋氏は隅田川会談には言及しない一方で、明らかに弥太郎と三菱念頭に「政商」批判をしています。「人物叢書」版では、会談の逸話も「政商」批判も省かれています。しかし、これが土屋氏の意向なのかどうか実は不明なのです。

 というのも平成の新版は、土屋氏が死の直前に完成させた改訂版の原稿を、編集者である日本歴史学会が「大幅に縮減し、多少の補正をし」て死後に上梓したものだからです。人物叢書版『渋沢栄一』は、栄一の四男渋沢秀雄による隅田川会談の「プロモ-ション」以降の栄一伝としては、隅田川会談や、それに関連して語られることの多い海運事業での争いに触れない異例のものとなっています。

 海運事業に関しては、土屋氏の元の版でも記述が極めて少ないのです。三度に渡って弥太郎、三菱に敗れたことを栄一側の不名誉だと資料の編集主任である氏が考えたのか、海運事業は栄一の業績の中で主要なものではないという趣旨なのか……ここでは「不明」としておきます。

3.なぜ会談逸話は消されたのか?

 この決断が土屋氏、日本歴史学会どちらによるものなのか、私には分かりません。吉川弘文館「人物叢書」は日本歴史学会編集をうたう権威ある歴史人物伝のシリーズです。その一冊として「渋沢栄一」の伝記を出すのに際し、歴史研究者として、二人の会談の逸話は学問的な検証に耐えるものではないと判断したのだろう、というのが私の推測です。

 もし逸話を収録するとしたら、秀雄の記述に含まれるフィクションや誇張に関して批判的に触れる必要が出て来るかもしれません。栄一の資料の編集者である土屋氏としては、あるいは氏の名で出版する本の編集者としては、栄一の子息である秀雄への批判を回避したとも考えられます。邪推かもしれませんが。

 これから、ずっと前に予告していた、弥太郎が丸山遊郭の誘惑の罠にはまっていく過程について、「幕末青春日記」の方のアカウントで長崎日記の抜粋をしていく予定です。間もなく、となるかどうか……いや、しなくてはなりません。「はるかな昔」では、誘惑の罠に関するまとめをして行きます。
 しかし、次回はシュンペーターと「イノベーター弥太郎」についてになるでしょう。唐突なようですが、本来もっと前に扱っておくべき「宿題」でした。
 トップ画像は「隅田川向嶋絵図」(上が南)。景山致恭[ほか編] 江戸 : 尾張屋清七 嘉永2-文久2[1849-1862]。Wikipediaより。


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