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渋沢栄一の四男秀雄と「海坊主」弥太郎

1.水上機に乗る渋沢秀雄

 渋沢秀雄は、戦後の高度経済成長期に随筆家として著名だったようです。私は若い時に同時代人だったわけですが、渋澤龍彦の本は読んでも、秀雄は(実は栄一も)殆ど知りませんでした。

 今回「文献」として目を通した秀雄の著作で惹かれたのは、のびやかな筆致の海外旅行記でした。1919年、28歳の秀雄は勤めていた銀行を辞め、自費で11カ国を巡る旅に出かけます。まずは太平洋を渡りました。

 桑港サンフランシスコの「夜の街はまた別して美しい。通る男はことごとくスマート。女はことごとく美人」と当時の日記を引用した後、アメリカの都会という「幻想の世界をわが足で自由に歩いている現身の自分を見出したときの嬉しさは、いまだにこの簡単な日記の行間から甦ってくる」と書きます。スイスでは、レマン湖で遊覧用水上飛行機に乗りました。どれほどの費用がかかったのか知りませんが、水上飛行機好きとしては羨ましい限り。

 上記の引用は『現代知性全集43(渋沢秀雄集)』日本書房、1960年より。水上機の件は日本経済新聞「私の履歴書」の渋沢秀雄の回にあります(1964年刊)。トップの写真は当時の水上飛行機の例として。機種は第一次世界大戦で活躍したイギリスのショート 184。Wikipediaより。

2.弥太郎に恨みがある?

 しかし、秀雄は、岩崎弥太郎に対して突然のように鋭い舌鋒を向けるのです。青少年向けに書いた書物でも、前回話題にした隅田川での父と岩崎弥太郎との会談に触れています。弥太郎から「きみとぼくがかたく手をにぎりあって事業を経営」しようと提案されて、栄一は以下のように考えたと記します。

岩崎の話をだんだん聞いてみると、けっきょく、かれと栄一で大きな富を独占しようという結論になる。栄一の考えとは正反対だ。栄一は自分ひとりが金もうけをする気は毛頭ない。いろいろな事業をおこして、大ぜいの人が利益を受けるとどうじに、国全体を富ましてゆきたい念願なのである。

渋沢秀雄『私たちはどう生きるか 10』ポプラ社、昭和34年

 合本か独占かと二人の議論が対立した、というのは他の書き手の逸話と同じですが、秀雄は弥太郎が富の独占を栄一に持ちかけたと記しています。隅田川の逸話の書き手で、ここまで直接的な表現をした者は彼以前にはいません。秀雄は弥太郎と三菱に何か恨みを持っているのだろうか、と疑いたくなります。両者が激しく争った時期、秀雄は生まれてすらいないのですが。

3.アンフェアな弥太郎?

 秀雄の主著『父 渋沢栄一』に、次のような「思い出」が記されています。両者が争った「三、四十年」の後、秀雄の姉の一人が父栄一に関して捏造記事を書かれたことを思い出して怒り、「あんなくやしい、腹の立ったことはありませんでした。ウソばかり書く人間を面詰めんきつしてやりたくって」と話したのを秀雄は記憶していました。「私はいまこれらの記事を読んで・・・・・・・・・・・・(傍点伊井)、そのときの姉の気持ちがよくわかるような気がする」

 秀雄は、栄一の伝記を書くために当時の記事を調べ、父のために義憤を抱いたようなのです。さらに、隅田川会談の後の実業界での対立の経緯をまとめた後、次のように記します。栄一にシンパシーを持っていた人でなくとも、ここを読めば、弥太郎に対して決定的に悪い印象を抱くことになりそうですし、たぶん本当にそうなりました。

 岩崎はあくらつな中傷記事をねつぞうして、栄一や新会社をこうげきした。しかし論語をモットーとする栄一には、そんなひれつなまねはできない。かれはさいごまで経営倫理のルールをまもりとおした……フェヤ・プレイの精神は、相手がルールを無視する人間だと損をする。

出典は上掲ポプラ社刊。『父 渋沢栄一』にも同様の記述あり。

4.「海坊主」弥太郎

 敵方をアンフェアだと決めつけるなら、自らの書き方がフェアであるかどうかについても自覚的であってほしいところでした。姉の怒りの感情は真実だったでしょうが、彼女の言葉がどこまで客観的に妥当かは検討の余地があったはずです。実は、弥太郎も当時中傷記事を書かれていたのです。そして、弥太郎に向けられた誹謗や人格攻撃は単なる新聞や雑誌の記事のようなものではありませんでした。

 両者が争っていた明治十年代半ばには、自由民権運動が燃え盛っていました。自由民権派は弥太郎を敵方の黒幕政商とみなして「海坊主」という怪物に擬し、弥太郎=海坊主のキャラクター人形を作って散々に打ちのめすというパフォーマンスを各地で行ったのです。こうして、弥太郎はいくら叩いても許される「悪役」のような存在になりました。栄一はこの騒ぎに無関係だったでしょうが、弥太郎に同情したという話もありません。

5.なぜ栄一は敗れたのか?

 栄一は三菱と争う海運会社の経営に参画し、立て続けに三度弥太郎に敗北しました。郵便蒸気船会社、東京風帆船会社、そして共同運輸です。秀雄は、悪役弥太郎の三菱がアンフェアなやり方で勝ったのだと思っています。しかし、実際には、三菱は何より会社としての組織力を活かし、戦略的に動いて(敵対的買収もその手段の一つ)勝利を得たのでした。秀雄をはじめ殆どの人はそのことが理解できませんでした。

 反三菱側の企業はなりは大きくても寄せ集めで、三菱の前では近代的企業として体をなさない烏合の衆のようなものでした。しかし、独裁が合本に勝った、と言うのも正確ではないでしょう。三菱が共同運輸と争っている頃、弥太郎は病が重くなり、戦いの最中に亡くなっています。それでも、弥太郎の不在で三菱が揺らぐことはありませんでした。当時の三菱がすでに近代的営利企業としての「会社」だった有力な証拠に他ならない、と私は考えます。

 次回、なぜ渋沢栄一と岩崎弥太郎は衝突しなくてはならなかったのか検討し、また弥太郎、弥太郎の三菱の「強さ」の源が現代に至るまで看過されて来た有様を概観します。

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