9条=幣原発案説について 中公新書「幣原喜重郎」(2012年4月25日発行)より
(1945年)10月11日、幣原はマッカーサーを訪問した。マッカーサーにとっては不満の残る会見だった。なぜなら、幣原が憲法改正問題を議論の俎上にのせなかったからである。
組閣当日の10月9日 幣原は木戸と憲法改正問題について意見を交わしている。その時幣原は、憲法改正にきわめて後ろ向きだった。
幣原には、帝国憲法の「運用次第にて目的を達す」という認識があった。
(近衛による憲法改正作業の情報を聞いても)それでも幣原は、内閣主導で憲法改正事業に当たることに消極的だった。
(1946年1月4日の公職追放後の改造内閣で)幣原はここで改憲について天皇制の擁護と絡めて構想していく。
この会談(1月24日の幣原=マッカーサー会談)では二つのことが話し合われた。ひとつは天皇制の擁護である。もうひとつは日本国憲法第九条に連なる、平和主義と戦争放棄についてである。両者の間で、新憲法の基本的な理念としての平和主義が語られ、それを実現するための戦争放棄についても合意をみたと考えてよかろう。
2月3日の朝、憲法草案に盛り込むべき必須の三項目(引用者注:マッカーサー三原則)が提示され、草案の作成を民政局に命じたメモが(中略)手渡された。
「陸海空軍を持つ権能」も与えられないことが次のように明記されていた。
(憲法研究会案について)ここに、戦争放棄や軍備についての記載はない。
(2月13日、GHQ案について松本国務大臣からの報告を受け)それ(象徴天皇制)以上に幣原が目を見張ったのは、戦争放棄しかも戦力不保持にまで踏み込んだ条文だった。日本が戦力を放棄することなど、合意した覚えはない、いったマッカーサーはなにを考えているのだろうか…。幣原の脳裏をめぐったのは、おそらくこの一事だったのではあるまいか。
(2月21日、幣原=マッカーサー会談)平和主義指向を強めていた幣原が、マッカーサーが要望する戦力不保持の憲法条文化に対して理解を示した。
この会談で幣原は、発案者は自分(マッカーサ)ではなく、あなた(幣原)であるべきだ、とマッカーサーに説得されたとみるべきだろう。
新憲法はあくまでも日本国民による自由意志から出たものであるべきで、決してGHQからであってはならない。
かくして幣原は、2月21日を境として憲法第九条の「発案者」となった。発案者は自分だと唱え続け、それを墓場まで持って行くことを決意した幣原は、壮大な芝居を打つことになったといえまいか。
<引用者>著者で駒澤大学教授の熊本史雄氏はこの後、九条の発案者をめぐって「マッカーサー大戦回顧録」、幣原「外交五十年」、平野三郎衆院議員による幣原へのインタビューの報告書、幣原の長男道太郎氏による「外交五十年」の「解説」、「芦田均日記」、いわゆる「羽室メモ」を紹介しつつ「戦力不保持の発案者は、マッカーサー以外には考えられない」と結論づけている。(※原文では年月日は漢数字表記)
幣原はパリ不戦条約の同時代を生きた外交官。戦争の違法化については違和感をもっておらず、マッカーサーと意気投合、というのもありうべし、と思われる。ただし、「戦力の不保持」というのは、そこから大きく一歩を踏み出す考え方。国際的に受け入れられている戦争の否定と、世界各国に先駆けての戦力不保持という考え方の間には大きな違い(なんというか、思考の断絶?飛躍?)があり、戦力不保持への大きな一歩が幣原ではなくマッカーサーによって演出された、という説は、故加藤典洋氏も「9条入門」の中に記している。