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2023.10.12

 30年ほど前、ヨーロッパに渡った。
留学なんて大層なものでなく、当時、田舎の生活環境にとことん嫌気がさして、ここよりはどこでもいいから。と思い、バイトで貯めた金でなるべく遠くの海外に逃げた。

 ローマからフィレンツェを目指す。電車内、周りでガヤガヤ喋ってる人たちの言葉がひとつも分からない。まぁ、なにひとつイタリア語を勉強しないまま来たので、当然のことなのだけれど。

 「これはまずいなぁ‥」と思う。言葉が分らないと危険を察知できない。例えば喧嘩なら言葉が分からなくても相手の出方で応戦すればいい。が、予測不能な物事が起こった時、それを「危ない!」と言ってくれる人の言葉が分からなければ回避することができない。

 こりゃ、どうしたもんか。。。もう日本に帰ろうか。などと車内で凹んだ日から3年が経ったが、結局は私はヨーロッパに住み続けていた。
 ビートルズのアビイ・ロードのジャケットになっている横断歩道。そこから1キロほど北上した、アッパーミドル層の親を持つ彼女の賃貸のフラットに転がり込んでいた。
 当時、「私は絵を描きたいんだ」と遠い目で未来を語れば、日本からやってくる女子の留学生はわんさかと釣れた。「絵を描く」と言いながら、日々、何もせず、ダラダラとクラブやら胡散臭いパーティーに出向き、悪いことだけを選んでやっているような私に、語学学校に通う彼女は何も言わなかった。
 彼女が出してくれる金で毎週末旅行に行き、その土地の観光地を巡り、美味い飯を食べ、帰ってくる。

 そんな生活が1年ほど続いたある日の深夜。
「あなたの描いた絵を見たいな」と彼女が言った。「なんで?」と、いつもの遊びの後遺症でグラグラした頭のまま私は応える。「来月、実家の都合で日本に帰ることになったの。突然でごめんね」と彼女が言う。そうか、そりゃそうだよね…。彼女に背を向け、キッチンに向い冷蔵庫を開け、白ワインのボトルをラッパ飲みする。
「そういうの、そろそろやめたら?」背中で彼女の言葉を受けながら、この先どうするか考える。
「私がここを出ても家賃半年間は前払いしてるから、そのまま住んでもらってかまわないの。でもね…」
「いや、出てくよ」彼女の言葉を遮り私は応える。「そうか、寂しくなるなぁ。住むところ見つけたら住所送るよ。そんで、月末って後2週間か!そうだね、後2週間、毎晩美味いもんつくるから、一緒に食べよう」グラつく頭で、精一杯言葉を並べる。どんな事情で彼女が帰国するのか知りたくなかったし、これからの我々の未来を語れるほど私は熟してなかった。

 「こっちで喋ったら?」白ワインのボトルをぶらぶらと手に下げ、冷蔵庫のドアに額をつけたまま喋る私に彼女が言う。
「あぁ、そうか…」と私はうつむいたままリビングに戻る。
「そんでね…」ソファーに座る彼女に話しかけようと顔を上げたところで、カメラをかまえた彼女が、シャッターを切った。

彼女が撮った写真

 あれから30年ほど経ち、彼女とは今も連絡が取れていない。

 私が新しい住所を送らなかったからかもしれないし、彼女の実家の事情なのかもしれない。

 この写真は彼女が去った後、残されたフィルムをどこかのスーパーでプリントしたものだと思う。

 時は流れて皆、歳をとるんだけど。

 あの若き夜、襲いくる焦燥感にかられ、自分と世界の距離を埋め合わせたくて必死だった自分がこんな顔をしてたんだ。と、今でもこの写真を見ながら思い出し、思う。

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