見出し画像

義父にまさかの失言

人間は、不完全な生き物だ。
誰だってミスをするし、勘違いをするし、ど忘れをする。

最近は、こういう不完全さに寛容ではない社会になっている気がする。
精神的な余裕というか、車のハンドルでいうところの〝あそび〟がないのだ。
人が人を称えるよりも、人が人を叩く風潮が強く、白か黒か、はっきりさせたがる。悪いものには言葉の暴力でとことん罰を与えたがる。
自分が加害者になっていることなど忘れて……。

なんかちょっと居心地悪いなぁって思う。

わたしは、間違ったときは素直に「ごめんなさい」と言える人間でありたい。
少なくとも政治家のように、下手な言い訳をしたり、「記憶にありません」という言葉なんて使いたくない。

わたしも「超」がつくほど不完全な人間だが、それでも、できるだけミスはしたくないから、日頃から思考を働かせ、マメに確認や相談をしている。
完璧は無理でも、〝できるだけ〟完璧に近づけたいのである。
けれど、そうは思っていても、ミスは必ず発生する。
それはとても人間らしいことなのだが、それが時として、「あちゃ~」というミスとして表れることがある。
わたしにもそんな経験がいくつもある。なかでも義父への失言は、今でもときどき思い出しては、脳内のdeleteボタンを押したくなる。

ある日、わたしは妻と妻の両親とラーメン屋さんに行くことになった。
その日は珍しく妻が運転し、助手席には義父、後部座席に義母とわたしが乗っていた。

片側二車線の道路を走行していると、右手に目的のラーメン屋さんが見えてきた。
妻は右ウインカーを出し、しばし対向車が過ぎるのを待っていた。
片側二車線、しかも交差点ではないため、対向車はなかなか途切れず、しばらく右折できないでいた。
運転が得意ではない妻に対して、助手席の義父がちょこちょことアドバイスを始める。
「まだ曲がるな」「あそこの信号は時差式だから気をつけろ」などなど。
緊張した様子の妻の後ろ姿を見ていたわたしは、思わずこう言ってしまった。

「ちょっと黙ってれば」

一瞬にして車内の空気が凍りついたが、すぐさま義母が、
「そうだよ、運転してる人にあれこれ言うもんじゃないよ」
と義父を一喝したではないか。

あーーー、しまった、完全に日本語を間違えてしまった。
明らかに〝その場に合わない〟言葉を選択してしまったのだ。

わたしの真意は、妻に、「対向車が来なくなるまで、とりあえずそこで止まっていたらいいんじゃない」というものだった。
それが、「ちょっと黙ってれば」という言葉として口から出てしまったのだ。
しかし普通に考えると、義父に対して「ちょっとあんた黙ってろよ」という発言にしか聞こえない。

わたしは自分が言葉のチョイスに失敗したことに気づき、青ざめた。
なんて失礼なことを言ってしまったのだ!
ラーメン屋に入ってからも、なんとなく義父との会話が弾まない。
アーメン……(意図的にラーメンと韻を踏んだわけではない)。

自宅に戻り、このときのことを妻に話すと、
「あんたもなかなか言うなぁと思った」とのこと。
慌てたわたしは、まるでどこかの政治家みたいに弁解した。
「そういう意味ではなかったんだよ……」

しかも、わたしは素直に「ごめんなさい」が言えなかった。
「そういう意味じゃないっす!」とも言えずじまいだった。
そこがまた後悔のポイントである。
けど、今更あのときのことを謝るのも時すでに遅し。

〝生きてるからさ、恥ずかしいことばっかだよ〟

これは、夫婦デュオ「ハンバートハンバート」のCDだかDVDだかの帯に書かれていた言葉である。
本当にその通りだ。
わたしは義父への失言エピソードのように、恥ずかしい体験をするたびに、この言葉を胸に、ミスをした自分に対する否定を取り下げ、今日も明日も前を向いて歩いていこうと思うのだった。

そう、自分にももっと優しくていいのだ。
間違いはするし、起こる。
そして、わたしの失言に対して、反論や怒りの態度一つ見せなった義父に対して、わたしはその心の大きさに、ただただ尊敬の念を抱く。

今、この時代に必要なのは、寛容さだ。
握りこぶしくらいの余裕だ。
それを相手にも自分にも持つことだ。

あー、でも、お義父さん!
あのときは、失礼なことを言って、本当にごめんなさーーーーーい!!!
わたしは、ときどき思い出しては、こうして心の中で謝罪している。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?