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自分の育児が正しいなんて到底思えない

先日みたニュースが忘れられない。

過去6ヶ月以内に、しつけ目的で子どもに体罰を与えたことのある親が3割いた。

というもの。
2020年4月、親による体罰がそれがしつけであってもNoであると法律に明記された。
具体的な罰則はないにしても、ある程度の抑止力はあるもかもしれないし、「しつけです」という言い訳が通らなくなること自体は悪くないと思う。
このニュースは、その法律に対する調査の一部だ。

ただ、自分自身を振り返ると、これは見る人によっては虐待かもしれないと思うことがある。

例えば、あれもこれもうまく進まない朝に、癇癪を起こしながら牛乳を床に壁にぶちまけた時。
わたしは出勤前の焦る気持ちと、うまくいかないイライラと、床と壁の惨状、それから子どもの癇癪の声で噴火する。
「しずかにしなさーーーーーい!」
とどなって、雑巾がわりのタオルを渡し、「自分で拭きなさい」と不機嫌に言い放つ。
場合によっては、そのタオルを投げつけるかもしれない。

あるいは仕事終わりに子どもたちを風呂に入れ、夕食の準備をしている時。
テレビを見ている姉、トミカで遊ぶ弟。
弟がテレビの前で遊び始め、そのうち邪魔だと姉が怒りだす。
姉が手を出して、これは慌てて飛び出しても間に合わない。弟が大声で泣く。
姉には注意し、弟は抱っこしてあやしながら普段入れないキッチンに迎え入れてさらに調理。
すると今度は「弟ばっかりずるいー!」と言いだす姉。入れてやれば、引き出しを開けて「これは?」「それ、わたしやる!」「できない!」
きょうだい喧嘩が始まり、地獄絵図。
二人ともキッチンから追い出し(この時点でかなりイライラ)、何か軽いお菓子を握らせて納得させて・・・
あー・・・やっとのことでご飯が完成・・・と思うと、椅子の取り合い、箸の取り合い、座った瞬間「お茶!」、しまいには「食べるより遊びたい」
何かがぷつんと切れて、「じゃあ勝手にしなさい!もう作るのやめる!」鬼の形相で怒鳴って、二人を残して別の部屋に引きこもるわたし。

こんなことが日常だ。これは、虐待?仕方がない範囲?


言い訳だけれど、我が家は夫婦二人。
親戚は遠方で全くあてにできないし、土地にゆかりもないから、気のおけない友達もいない。
シッターさんをお願いすることはできるけれど、コロナでそれもためらい、既に保育園以外は完全に夫婦と子どもの生活をしている。

保育園だから仕事の休日は子どもも休みな訳で、STという仕事を休めば、親と言う仕事を1日するだけのこと。
もし土日に夫婦のどちらかが息抜きすれば、その間は相手が育児をしているわけで、落ち着いて息抜き一つできない。

以前に、娘が赤ちゃんの時は産後うつだったと書いたけれど、今思えばそれも無理はない。
わたし自信のバックボーンの問題もある気がするけれど、どこにも心から頼れない生活が、心身を侵さないはずがない。
わたしの真面目すぎる性格と自己肯定感の低さ、夫の不在、知り合いのいない土地柄。
誰にも助けを求められなかったから、「この子はわたしを苦しめに生まれてきた」と思うまでになってしまったのだと思う。

今は夫がほとんど毎日定時で帰宅して、夕飯以降の家事と育児は分担。
なるべく夜には1時間でも二人揃ってリビングで過ごす時間をとり、夫婦で自助する流れができた。

それでも、夫婦で完結するしかない生活は、結構辛い。いや、かなり辛い。

夫婦なればこそケンカもするし、遠慮のなくなっている部分もある。
相手をパートナーと思えばこそ多くを求めてしまったり、失望したりもする。

子どもたちの保育園では、登園簿というのがあり、朝と夕方に登園時刻とお迎え時刻。引率者を記入する。

このところ、その登園簿を見ながらため息の出ることがある。
引率者の欄に、「母」「父」以外の文字を見ると「羨ましい」と思う自分がいる。

親以外の身内が、子どものことを見ていてくれる。
それがとてつもなく羨ましい。
もちろん一番の責任者が親であることは間違い無いけれど、目がある。
それは、子どもたちに対する目だけではなく、親に対する目でもあると思う。

わかっている。
祖父母、そのほかの親戚や身内が育児に関わってくれることは、いいことばかりでは無いだろう。

育児の方針を統一することも難しくなるだろうし、気を遣うこともたくさんあるだろう。

それでも、自分たちだけじゃ無い。
ということが、どれほど救いになるか!

ちなみに、わたしの姉一家は実家の敷地内に別棟を建てて、敷地内別居で暮らしている。
甥っ子姪っ子のお迎えはわたしの両親(甥っ子姪っ子の祖父母)が主にしているし、習い事にも連れて行っている。
食事は姉が作って準備しているけれど、母が作った惣菜をお裾分けしていることもある。
休日は両家屋の間に広がる庭で子どもたちは遊び、2世帯でドライブしたりする。

正直、一人暮らしを始めた時に両親から解き放たれ、「最高!」と思った身としては、ちょっと親が近すぎて面倒くさいと思う。
それでも、育児という点でいえば両親の恩恵は大きいし(負の面もあると思うけれど)、何より逃げ場がある。
子どもたちも親(姉夫婦)と喧嘩すれば、祖父母の家に行って気晴らしできる。
姉夫婦だって、もうやってられないと思った時、一時的に預かってもらうことができる。


結局、育児をしていて一番追い詰められるのは、孤独・孤軍奮闘なときだ。
それは「孤」のボリュームが、一人でも二人でも夫婦であっても。

冒頭の調査結果に対し、そのニュースでは

虐待について、育児の知識について親の指導を行なっていく

という解決策を挙げていた。

ちなみに、この調査において「手をあげたあと後悔した親」が8割を超えている。
と、するなら親は「手をあげていい」と思って手をあげているのではなく、抑えられなくてあげているのに。
なのに、教育とは!

実際、その調査に関する情報を少し集めてみると、ストレスが要員の大きな一つと挙げられていて、育児負担を減らす改正案が上がっているとのこと。

そりゃあそうよね。

あの番組の切り取った部分が、親の教育だったということ。
しかし、そのニュースだけをみた人の中には誤解を持つ人もいるんじゃ無いかしら。

実際、そのニュースを見たときのわたしは、「これ以上親が悪いと責められるの?」と感じたから。

いやいや、虐待する親は悪い。
それはそうです。虐待はダメ。

でも、8割が後悔しているという通り、虐待をしたくてしている親はそう多く無い。
そして「虐待」の定義だって、きっと個人間で曖昧な部分があって、時代によって変動もしている。

例えば、わたしは父に殴られたことがある。
母に頬を思いっきり引っ張られたことがある。
ちらりと書いたけれど、自己肯定感がものすごく低いのは、両親から欠点ばかりを指摘されてきたことが一つの要因だと思う。
「わがまま」
「自分勝手」
「癇癪もちで、癇の虫に悩まされた」
「本当は優しいんだけど」
「情けない顔」
別にわたしを悲しませたくて言った言葉じゃ無いのだろうけれど、繰り返し繰り返し言われたことで、「自分は取るに足りないダメ人間」だと思うのに十分だった。

これ、今なら虐待です。
虐待防止の指針をみると、言葉での虐待に含まれています。

でも当たり前だった。
当時は親がこんなことを子供に言うのは当たり前だったし、他人の前で「謙遜」として我が子をこき下ろすのも普通だった。

そうやって育ってきたわたしにとって、これらの言葉は染みつきすぎている。
これを言われたことで子どもの心がどう育つかしっているから、使わないように心がけている。
それなのに、自分の中に植っている言葉だから、不意に出てきてしまったりする。
常に葛藤。


わたしは30代半ばだけれど、同世代の人たちは同じような経験がある人が多いのでは無いだろうか。

わたしは自分のことを「過渡期の育児世代」だと思っている。
全時代的な育児、親こそ家中で一番偉くて正しい存在で家の法律とする考えは廃れて、それぞれの権利と義務を見直すことがなされている。
しかも、その見直しは当事者の気持ちや環境を考慮していると言いつつ、当事者に痛みが伴う。と感じる。

自分が与えられてきたものを疑って、別なやり方を実行すると言うのは簡単じゃ無い。
いくら新しい方法が正しいことだと思っていても、心身が学んでいることでは無いからだ。
そんなときは理性的に判断するしか無いけれど、理性は意外と脆い。
理性的にいるためには、ある程度の余裕が必要なのだと思う。

こういうわたしの考えは、甘えで、言い訳なのだろうか。
どうしたって、子どもたちのことをとても愛しているから、困ってしまう。
わたしはいつも育児につまづいているし、自分が毒母なのでは無いかと怯えている。

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