ジョーカーは何処に居るのか - ジョーカー フォリ・ア・ドゥ ネタバレ有り感想 -

基本的にこの映画を見た人向けの感想です。「見る気が無いけど感想は気になる」人向けにも書いてます。
前置きが長いので感想だけみたい人は目次から

前置き

2019年、ある映画が公開されある種の社会現象を引き起こしたことは記憶に新しい。
そう、ホアキン・フェニックス主演の「ジョーカー」だ。
ジョーカーというのは元々アメリカのDCコミックが誇るダークヒーロー「バッドマン」のヴィラン(悪役)として登場するキャラクターだ。
派手な格好をしていて、歪んだジョークを好み、知性的だが狂っているという2面性を持つ彼はヴィランの中でも特に人気が高い。
日本ではニコニコ動画の「ジョーカーさん」の嘘字幕シリーズで知っているという人も居るだろう(映画「ダークナイト」のバッドマンがジョーカーを尋問するシーンに嘘の字幕を当てて様々なことを喋らせるミーム)
さてそんな稀代のヴィランにフォーカスを当てた映画「ジョーカー」は所謂「オリジンストーリー」とも言える内容だった。
主人公のアーサーは、唐突に笑い出してしまう発作に苦しみながらゴッサム・シティでピエロとして僅かな金を稼ぎながら母親と暮らしていた。そんなアーサーが理不尽な暴力や世間からの冷たい対応を受け、ピエロメイクの殺人鬼「ジョーカー」として覚醒してしまう。そんなお話だ。(見てない人は是非見てほしい、こんなあらすじでは語りきれないほど素晴らしい映画だ)
さて、そんな映画「ジョーカー」は世間で大ヒットし、その内容からアメリカ本国では警察が映画館に張り込むという異常な事態となったことも話題になった。
そして2024年、待望の続編「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ(以後ジョーカー2)」が公開されたというわけだ。予算は前作の6000万ドルから約4倍弱の2億ドル!更にハーレイ・クイン(バッドマンに登場する女性ヴィランで、ジョーカーのパートナー)役としてあのレディ・ガガを起用!これは外れる筈がない!
そんなジョーカー2の評価がこれである

RottenTomatoesより

普段ロッテントマトを利用しない方向けに説明すると、左が評論家の評価、右が大衆の評価を表して居る。何方の評価にせよ32%という数字はかなり「良くない」評価と言えるだろう。(余談だが、このサイトでは多くの場合大衆評価と評論家の評価が逆の方向である傾向にあり、本作のように一致することは珍しい)
日本国内でも賛否分かれているが、やはり否の感想が目立つようだ。
ある意味「勝ち確」のハズだった本作がここまで酷評されているのはなぜなのだろうか?

どういう映画?(ネタバレ)

本作は前作「ジョーカー」で覚醒したジョーカーがハーレイ・クインと共にゴッサムシティを混沌に陥れる映画……等ではない。

本作はむしろそういった「ジョーカー」への期待を破壊する話になっている。
妄想以外のシーンで終始画面に映るのは哀れな精神疾患を抱えたアーサー・フレックでしか無い。それが紛れもない現実だ。ハーレイや大衆は虚像の悪のカリスマ「ジョーカー」を見て、勝手に期待し、アーサーが「僕はジョーカーじゃない」といった途端勝手に落胆する。
DC最高のヴィラン「ジョーカー」のファンや、それを期待してきた観客を裏切り、ある意味で皮肉るような内容の映画なのだ。

映像的な評価

内容の感想の前に、映像としてみた時の個人的な評価はかなり高い。
多々挟まるミュージカルは確かにテンポが悪いが物語的に意味のあるものでとして個人的には最後納得できた。カメラワーク、光源、配色、演出、ロケのすべてがレベルが高く、どのシーンを切り取っても「絵になる」映画と言えるだろう。
特にレディ・ガガ演じるハーレイ・クインが兎に角素敵なので、彼女を見るために映画を見る価値はあると思う。

何故酷評されているのか?

  1. 単純にエンタメとして面白くない

  2. 観客を裏切っている

主にこの二点が理由で酷評されている用に思える。
まずテーマ云々以前の問題として、映像としてのレベルは高くても終盤まで地味でどこか起伏にかける展開は眠気を誘うし、所々挟まるミュージカルが致命的に映画としてのテンポを損なっている。
前作では現実と妄想がシームレスに切り替わり「何処からが妄想で何処からが現実なのか分からない」といった魅力があったが今作では「暗転して突然ミュージカルを始める」ことで妄想を表現しており、この演出の変化も受け入れられない人は多いだろう。
2つめの観点として、ある意味でこの映画は初めから「観客を裏切るために作られた」映画とも言える。
本作品のジョーカーは実はジョーカー等ではなく、タダの哀れな中年男性のアーサーである。
自分の意志で殺人を犯したがそれを後悔しているし、犯罪の才能もない。ユーモアのセンスもない。ただ周りが勝手に「ジョーカー」を幻視し、持ち上げているだけだということがこれでもかという程表現さられる。
彼がカッコよくあれるのは妄想の中だけであり、現実でジョーカーのコスプレをしても本当の意味での「ヴィラン」にはなれないのだ。
この映画を見るDCコミックスのファンは「ヴィラン」の「ジョーカー」を見に来ているし、前作の最後でジョーカーが覚醒するところが好きだったという人も概ね同じ気持ちだろう。「だからこそ」このテーマなのだ。
裁判所の傍聴席でジョーカーを応援し、ジョーカーだと思っていた人間が実はジョーカーではなく「タダのアーサーだった」と分かれば憤って席を立つ彼らは我々観客だ。
観客含めて誰も「アーサー」を見ていない。それが本作のテーマなのだ。

自分の感想

まず正直な感想として(期待値を落としていったこともあるが)「言われてるほど悪くはないな」と思った。
ミュージカルは確かに退屈だが、終盤のアーサーの「もう歌うのは辞めてくれ」というセリフにかかってアーサー自身が歌う妄想を心からは求めていなかったことが分かるのは個人的には納得感が有ったし、展開の退屈さも映像の質の高さがカバーして終始飽きるというほどではなかった(低予算なラブコメ邦画の方がよっぽど退屈だと思う)
賛否両論のテーマ性にしても、ジョーカーのブランドを無視すれば続き物の映画としてはむしろ順当すぎるほどだと思うし、しっかりとその点は伝わってくるので視聴後の納得感は有った。
ただ、やはり「ジョーカー」というタイトルを冠してしまったことが良くなかったと思う。
やっぱりジョーカーといえばダークナイトに出てくるような悪のカリスマで、妖しい魅力があり、知性的で狂っているような、そういった悪役であってほしいし、ヴィラン映画としてはバッドマンとの絡みやハーレイ・クインの掘り下げのような王道を期待した人も多いだろう(自分もその一人だ)
そういった期待を裏切ってまでチャレンジする価値がこの作品にあったのかどうかは自分にはわからない。ただ、一つ言えるのは現実世界でアーサーを「一人の人間」としてみていたのは恐らく監督とホアキン・フェニックスだけなのではなかろうかということだ。
総評として、「酷評されているほど悪くはないが、ヴィラン映画を見たいなら最悪」といった感想で本記事を締めたいと思う。

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