もうひとつのルビコン川 紀元前49年1月10日 ルビコン川
歴史が動いた日である。
名言「賽は投げられた」はこの時の言葉である。
しかし、その現場はここではなかった。イタリア半島の東側、アドリア海に面した場所あるのが、有名なルビコン川である。古代とは位置関係が若干違うという説もある。
現在のルビコン川とされる場所はムッソリーニの時代、つまり20世紀に制定された場所である。
ここがローマの国境とされた場所である。
もう一方、西側の国境は、現在のアルノ川、フィレンツェの市内を流れる川の位置あたりと思われる。この辺りは定説はないのであるが、ルビコン川との位置関係を考えるとこの辺りではなかろうかと推測される。
イタリア半島東側には歴戦の勇士、ガリア戦役を戦い抜いた精鋭たちが集っている。
一方、ローマ元老院からの武装解除の通達も来ている。
武装解除をしてローマの領地に入るのがルールである。
武装解除をしない場合....それは国家反逆罪となる。
つまり、自国の別の軍勢に攻められる立場となる。
カエサルにとってはかつての盟友ポンペイウスがそれにあたる。
一方、ローマ軍の兵士にとっては同胞達となる。
完全なる内乱、不幸の始まりである。
そんな殺伐な雰囲気とは異なり、西側の国境付近は飄々としていた。
史実では川を渡った時間まではわかってはいない。
ドラマチックな演出であれば、夕日がティベリア海に沈む夕暮れ時かもしれない。
実際は、軍事行動であるため、早朝と見るのが最適であろう。
当時、電気がない世界で夜の行軍は考えずらいのである。
或いは…
敵の裏をかき、夜間行軍をするぐらいはユリウス・カエサルならばやったのかもしれない。
しかしながら、国境突破程度でそのようなリスクを負うアクションをするとも思えない。
運は肝心なところまでとっておく。ユリウス・カエサルの人となりを考慮するとここは定石通りの采配ではなかろうかとも思えてくる。
ラビエヌスにとっても同じであった。
こちらは孤独な一人旅となる。見送る家族もいない。
いるのは付き添いに来たデキウス・ブルータスだけであった。
デキウスはこの期に及んでも説得を諦めなかった。
彼特有の粘り強さでもあった。若さゆえの性急さ、いや情熱なのだろうか。
この時、35歳壮齢期の青年には精神的なエナジーも肉体的なエナジーもみなぎっていた。それにデキウスには話を長引かせる必要があった。
ラビエヌスが説得に応じる可能性は今は低いと思っていた。
今後、戦局が変わったときに、彼の考えが変わる可能性もあるのだ。
そのための布石は打っておく必要があった。
彼は待っていたのだ。今後の布石のために....
その時だった。数頭の馬が近づいてきた。
デキウスが待っていた人物が到着した。
待ち人はガリア人であった。
ガリア人は一礼すると懐の手紙をラビエヌスに渡した。
ガリア人を一瞥すると手で読むように促した。彼はローマの公用語ラテン語が不得手だったようだ。
その手紙の主はラビエヌスの妻だった。
デキウス・ブルータスの手配で無事であること。家族の警護はデキウス配下のものが行うこと。荷物は指定場所に届ける約束をしたこと。そして、家族との連絡係として、この手紙を運んだガリア人を送ることを伝えてきた。
ラビエヌスの顔にほんの一瞬だけほほえみが浮かんだ。
家族の気遣いが戦いに挑む男に一瞬だけ安らぎが訪れた。
デキウスに顔を向けると彼は無言でうなずいた。彼の顔にもほほえみが浮かんでいた。
ありがとうの言葉はなかった。しかし、表情だけでそれ以上の感謝の気持ちをあらわしたようなほほえみだった。
真の漢(おとこ)には装飾だの、美辞麗句だのは必要ないのかもしれない。
この後続く殺伐とした歴史に一瞬訪れた春のひと時のようだった。
ラビエヌスは軽く会釈をすると出発するようにガリア人に促した。
ガリア人はラビエヌスに馬に乗るように促した。ラビエヌスが予備の馬と勘違いした馬は、ラビエヌスが乗馬するために連れてきたものだった。
カエサルの陣営から去って、裸一貫でここまできた。
なにも持たない。持ちたくない。そんな気持ちにもなっていた。
ここからの己一人、己の実力だけで再び生きていくという覚悟を決めた後だった。
ラビエヌスの心に感謝以上のものがこみあげてきた。
デキウス・ブルータス、できる男だ.....
いずれローマきっての名将となろう。いや政治家として執政官、元老院での活躍もみられるかもしれない。この時代では老齢となっていたラビエヌスに未来の明るさが差し込んだ。
「この青年の行く末をみたい....」
そんな思いも心を横切った。
それと同時に自分と同世代、同年齢のカエサルとの対決に諸行無常な思いももった。
明るい未来と暗い現実が両方心に刺さったのだ。
なにかを彼に残したい。そういう気持ちが心をよぎった。
あいにくなにももっていなかった。その様子を看取ったのであろうか....ガリア人がもう一頭の馬から荷物を取り出した。
それはラビエヌスの家族から送られてきたものであった。
これからの彼に必要なものを吟味して家族が運ぶように指示したものだった。
その中にある小箱があった。ラビエヌスの”宝物”だった。
ラビエヌスは躊躇することなく、それをデキウス・ブルータスに与えた。
いや託したといってもよかろう。
それは黄金製のトーガ止めであった。トーガとはローマ人が着る肩掛けのマントのような衣類である。通常は紐などで結ぶものであるが、一部装飾品で止めるケースもあったのであろう。通常は使わないものであるのだが、家族は敢えて送ってきたのではないだろうか。
ラビエヌスの律儀さは家族も重々承知していた。
その彼が行うであろう行為も容易に察していたらしい。
この青年にお礼を。それが家族の気持ちだとラビエヌス自身も悟った。
「これを....」
再びほほえみを浮かべた表情でラビエヌスはデキウス・ブルータスに話しかけた。
やや驚いたような表情でデキウスはラビエヌスの顔をみた。
言葉は少なかった。ローマ時代の軍人らしい清々しさであった。
要約すると明るい未来をみせてもらったお礼という意味合いの言葉をつぶやいた。
そこには、その未来を見れないだろう自身の身を思う気持ちを行間にこめた。
少し寂しさが漂った。
デキウスもこの名将の人柄を感じ取った。この人だけは....なんとか助けたい。
その想いが顔にでただろう。ラビエヌスはほほえみを表情の奥にしまった。
「それではここで」
名将は言葉少なく、踵を返した。この川を渡れば、お別れとなる。
寂寥の気持ちが自身から漂った。
デキウスは、視線を変え、ガリア人を見つめた。
目で合図をしたのだ。
「頼んだぞ!」
ガリア人も目で合図を送った。
その時、紀元前49年1月10日 早朝未明。
アルノ川から漂う霧の中にラビエヌスは消えていった。
そして、同日同刻、ユリウス・カエサルと彼の精鋭軍団はルビコン川を渡った。
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