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付箋・傍線 2

『百冊で耕す』 近藤康太郎 株式会社CCCメディアハウス      装幀:新井大輔

   タイトルに惹きつけられて手に取った。『百年の孤独』(ガルシア・マルケス)や『70歳の日記』(メイ・サートン)など、数字が大きな意味を持つ作品は多い。

   作者は朝日新聞編集委員であり、作家・評論家としても活躍、肩書には私塾塾長ともある。農業や狩猟にも従事しているらしい。哲学、科学、社会科学、自然科学そして文学と、幅広い読書歴から、いかに教養を血肉とするか細やかに指南してくれる。

「読まないくせにというけれど」という章では、積ん読について言及している。「かっこつけると見える風景がある」というのだ。「積ん読は人を変える」という一文に、私は傍線を引いている。作者は30年来積ん読だった『存在と時間』を、十冊以上の参考書を脇に置きつつ、ドイツ語の原書とも対照し、3年かけて読了したのだ。


 いまだって、「とても読めた代物ではない」ことに変わりない。一生を賭けてハイデガーを研究する学者もいるなかで、自分の、いちおうの読みが正しいものだなどと、言えたものではない。しかし、読み通したことだけは事実だ。目は動かした。その一部には、深く共感できた。一部には反発した。特別好きないくつかの章句は、ドイツ語で暗誦できる。
 これで、一般人の読みとしては十分ではないか。

71P

 私もまさに『存在と時間』を三十年積読し、数年前に一念発起して「読了」した。ただ、私の場合は、筒井康隆の『誰にもわかるハイデガー』をただただ頼りに、たまに、この単語は原語でどういうのかな、と原書にあたる程度。理解には、程遠い。しかし、「目は動かせて」読み通した。たくさん付箋を貼り、たくさん傍線を引いた。私は、それにどれほどの意味があるのか自問してきたが、わずかでも得たものがあったのだから、よしとしよう。作者に、そう励まされた想いだ。この度、ハイデガーの本を棚から引っ張り出したら、大澤真幸が解説した新聞記事の切り抜きが挟まれていた。それにも、赤ペンで何箇所か傍線を引いていた。

    本書を読み進めると、なぜ百冊なのか、あるいはどのような百冊なのか解きほぐされていく。圧倒的な熱量で本との向き合い方を語る作者から、私はこれまでの自分の読書を振り返り、今後の指針も与えてもらうこととなった。巻末には、ちょっとしたお楽しみというか、仕掛けもある。

 

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